特攻隊長との別れ「それ来たぞ」「いよいよ来たか」淡々と死刑執行へ~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#60
1945年4月。沖縄戦が始まって、石垣島も空襲が激しくなり、いつ米軍が上陸するか、緊張する中で起きた石垣島事件。3人の米軍機搭乗員の殺害に対して、横浜裁判で7人に死刑が宣告された。一人目を斬首した特攻隊長、幕田稔大尉が死刑囚の棟で同室だったのは、九大生体解剖事件で戦犯に問われた西部軍の佐藤吉直大佐。別れの日、二人が交わした言葉はー。 【写真で見る】死刑を宣告される幕田大尉とみられる男性
石垣島の住民からは「蛇蝎のように嫌われ」
軍人同士、気が合って、二畳の部屋に枕を並べて1年半を過ごした幕田大尉と佐藤大佐。佐藤大佐は、幕田大尉の性格を「剛直な性格の中に非常にやさしいところがあり」また「母の為には好い青年、弟妹達の為には思いやりのある兄貴」と追悼文の中で書いた。 しかし、任務に忠実な軍人は、命令であれば乱暴なことにも忠実であったのだろう。「八重山の戦争」(大田静男著1996年南山舎)によれば、幕田大尉は住民たちには酷い仕打ちをしていた。 『第二三震洋隊幕田隊は、1944年10月25日に編成された。隊員184人、震洋艇52隻を備えていた。陣地は旅団が米英軍の上陸地点と予想した宮良湾に面し、また陸海軍飛行場が近いため連日空襲に見舞われた。しかし、震洋艇の出撃はなかった。 幕田隊は宮良集落の幹部に野菜や卵などの調達を強制し、調達ができなくなると抜刀し「村を焼き払う」などと威嚇した。当時の集落幹部は、今もって蛇蝎のように幕田隊長を嫌っている。』(「八重山の戦争」大田静男著より) 〈写真:石垣島〉
はかない希望は消えて
死刑囚の棟で座禅を組み、信仰を深めて、悟りの境地に到達した幕田大尉。その幕田大尉との別れの様子を佐藤大佐は綴っている。(なお、幕田大尉の死刑執行は、4月7日の午前0時半ごろだが、仲間たちには翌8日に知らされたのか、8日と記録している人が複数いる) <十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)木曜日の夜 幕田稔君の憶い出 佐藤吉直>より(1953年発行) 昭和二十五年四月八日は幕田君の最期の日である。この年はキリストの聖年であり、法王が各国政府に対し、死刑の廃止と戦犯の釈放とを勧告したことも聞いたし、恐らくはこれ以上死刑の執行はないのではないかと想像して、正月から何となく明るい気分で日を送った。 二月頃だったと思うが、我々のケースの裁判長が死刑囚を見に来たことがあった。誰かが「自分が死刑を宣告した者を見に来るということは、若し依然死刑執行するというのだったら、普通の人間では気の毒で出来ない事だろう。きっとよい徴候だ」と言ったことだった。併しそれははかない希望的観察であり、又その裁判長を知らないものであった。 〈写真:「十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)」(1953年)木曜日の夜 幕田稔君の憶い出 佐藤吉直の頁〉