「世界と自分のずれを描く」小池水音×又吉直樹『あのころの僕は』刊行記念対談
まわりの世界とのずれ
小池 又吉さんにも子どもの視点で書かれた作品がありますよね。二〇一二年に『別冊文藝春秋』に書かれた「そろそろ帰ろかな」という短編です。又吉さん自身を思わせる少年が語り手で、さっきおっしゃっていたような家族の情景が描かれています。今回、僕が天を視座に据えたことで見えたものと似たものがこの小説に表れているような気がして、近いところで書かれている作品なのではないかと思いました。 又吉 だいぶ前に書いた作品なのでうろおぼえなんですが、確か自分が記憶していることを順番に書いていこうと思ったんですよね。自分の頭のなかにある最初の記憶って何かなって考えてみたら、なんか部屋の壁がはがれ落ちてる光景があるなと。そこから小説を書き出してみたらどうなるかなと思って書いた小説なので、ほぼ自分のことが書かれています。 その頃のことを僕はよく覚えているんですが、まわりの世界に違和感を覚えることが多かったんですよ。例えば、僕の父親ってかっこいいみたいなんです。だから、あの作品に書いたように沖縄に一緒に行ったときに、親戚のおばさんが父に「なんであんたはハンサムなのに直樹は十人並なの?」みたいに言ったことがあって。子どもだから「十人並」って言葉がわからなくて父親に聞いたら、「普通っちゅうことや!」って返ってきた(笑)。だけど普通であることがなんでいけないのかわからない。普通の何があかんのやろって思ってました。 保育所でも直樹くんはおとなし過ぎるとか、人の後ろにばかりくっついてるとか言われてたけど、いやいやちゃうやろって。俺は一人で遊びたいけどあなたたちがみんなで遊びなさいって言うから、渋々みんなの真似してんねんって思ってました(笑)。強制されて仕方なしに人の後ろについていくとなぜか自主性がないとか言われて、いまだに何があかんかったのかよくわからない。だけど卑屈になるわけじゃなくて、それを素朴に受け止めてましたね。 小池 まわりの世界とのずれがあったんですね。 又吉 そうですね。そういうのがいつも気になってて。ほかにも、うちの父親ってみんなに駄目な奴って言われるんですよ。母親はちゃんと働いてて優しいから褒められるんだけど、父親はむちゃくちゃだから姉たちにも嫌われる。なのに、その裏で父は不良に憧れてるような人たちから崇められてたりもする。これ、どういうことなんやろうって思ってました。 小池 あの作品ではお父さんとお母さんが別居するってなったときに、お姉さん二人はお母さんについていくのに対して「僕」はお父さんと沖縄に行くことを選びますよね。お父さんに味方がいないからって。 又吉 ほんとは母親の方に行きたいんですけどね(笑)。だけど、自分までお母さんの方についたら三対〇になってしまう。だから気遣って、お父さんと沖縄に行くことを選んだんです。 小池 じつは僕も全く同じ経験をしたことがあります。明らかに母親の方にシンパシーを抱いているのに、姉も僕も、二人ともそちら側についたら父親が一人になってしまう。自分の選択が全てを決めてしまうことの恐れのようなものを感じたというか。 又吉 子どもの自分がそれを請け負わなきゃいけないのはなんでなんでしょうね。 小池 先に選ばせてくれれば自由に選べたのに、なぜか最後に選ぶことになってしまうから追い込まれるんですよね。