「世界と自分のずれを描く」小池水音×又吉直樹『あのころの僕は』刊行記念対談
内と外の速度の違い
又吉 今回の作品を書くにあたって、今、書くべきことはこれだなと感じたんですか? 小池 そうですね。デビューしてから年に一作くらいのペースで発表しているのですが、一作目から三作目まではそれぞれ近い問題意識を変奏させながら書いていました。物語の内容はもちろん違うものの、扱っている主題は同じで、それを小説のなかでじっくり考えてみようと思ったんです。決してやりきった感覚があるわけではないのですが、今回は別の物語のエンジンがほしいなと考えて「僕」という一人称の子どもの視点で書いてみました。おそらくそこに自分の求めていた小説の質感があったのではないかと思います。 子どもの視点で書くことが難しいものになることは、書き始める前からなんとなくわかっていました。どうしても大人である自分が子どもを模倣して書くことになるわけですから。ただ、「あのころ」を振り返るという語りで冒頭の場面を書いてすぐに、子どもだからここまで考えられないはずだとか、こんな細かいことは覚えてないのではないかといった留保はしなくてもいいんじゃないかと思うようになりました。記憶は思いがけないかたちで残りつづけるものなんじゃないか、と。 又吉 書いていくうちにそのことを実感したわけですか? 小池 はい。それと、大学生の頃に幼稚園でアルバイトをしていたときの経験も大きかったのだと思います。三年間、子どもたちと一緒に過ごしているうちに、自分自身の幼少期の経験をありありと思い出したことが何度もありました。記憶はすっかり消えてしまわずに、体内にいつまでも残っているものなのだとよくわかった。子どもの脳内に渦巻いている情報量ってすさまじいんですよね。表に出せていないだけで、子どもはたくさんのことを認識したり考えたりしている。それも大人の想像をはるかに超えるかたちで。あのときの経験があったので、手加減して子どもらしく書くよりも遠慮せずに明瞭に語らせた方がより良い方向にいけそうだ、という実感を得ることができたのだと思います。 又吉 その感覚、よくわかります。じつは僕も天と一緒でしゃべるのが苦手な子どもでした。頭のなかで考えていることはたくさんあるんだけど、それを取り出すのがうまくできないというか。僕には姉が二人いるんですが、二人ともおしゃべりが達者やったんですよ。三つ上と四つ上だから、僕は圧倒されてばかりいました。自分もしゃべりたいと思ってイメージを膨らませるんですけど、何をどう話せばいいか、言葉を選んでいるうちに会話がどんどん流れていってしまう。みんなが待っててくれても、なかなか言葉が出てこない。だから家でも保育所でも学校でも自分からはしゃべらん子になってしまったんです。そのせいでおとなしいとか無口とかよく言われてましたね。でもそう言われても、あまりピンとこないんですよ。頭のなかではめちゃくちゃしゃべってるから。 小池 自己像と合わないというか。 又吉 合わないんですよね。自分の内側ではいろいろしゃべってるんやけどなって。家では母親が無理に姉たちを黙らせて、今度は直樹がしゃべる番ねとか言ってくれるんですけど、そうするとまた緊張して話せない。 小池 ボールがまわってくるとドキドキしちゃってうまく蹴れないんですね。 又吉 そう。一人で蹴ってるときはうまくできるのに。でも、それはお笑いにしても小説にしても、自分が今やっていることにとって必要な時間やったんちゃうかなってよく思います。もし自分が他人の会話に入るのがうまかったら、立ち止まってそれについて考えることもなかったでしょうし。天にもあの頃の僕と近いものを感じました。近いというか、ほぼ同質かな。自分が置かれている状況を誰よりもわかってるんやけど、そこで感じたことの意味を確定させるのをすごく恐れている。この小説には彼なりに少しずつやってみようとする速度感がありありと表れているんですが、それこそが正しい時間の流れ方なんやと思います。 物語の中心にはもう一人、天が初恋をするさりかちゃんという女の子がいますよね。彼女はイギリスにずっと住んでたから、帰国して幼稚園に転入したばかりの頃はうまく日本語が話せない。おそらく英語でやったらたくさんしゃべれるんでしょうけど、最初の方はたどたどしい日本語で天たちと会話をしている。そういうテンポ感だから天とも仲良くなれた。でも、そんな彼女も三ヶ月くらい経つとすっかり日本語が達者になるじゃないですか。言葉だけじゃなくて、父親の不在も現実的に処理できるようになってる。さりかちゃんの生きるテンポが一気に速まるから天は戸惑うんですけど、だからって彼女が悪いわけじゃないんですよね。それはそれでポジティヴで素敵なことだし。 小池 天とは境遇が違うんですが、僕も又吉さんと同じく姉がいるのでその戸惑いはよくわかります。幼い頃、姉やその友達がすごい速度で話しているのを聞きながら、会話に入ろうとしてもうまくいかないことがよくありました。自分にも何か差し出せるものがあるんじゃないかと思って言葉にしようとするんですが、姉たちのスピードについていけない。自分のなかで経過している時間と、ほかの世界で進んでいる時間がずれているという感覚があったというか。 考えてみれば、そのことを思い出しながらこの小説を書いていたような気がします。世界と自分との時間のずれはこの小説にとってとても大きな要素だった。じつは前作を発表してから、なかなか新しい小説が書けない時期が続いていたんです。でも、「僕」という一人称と「あのころ」という過去の時制でいこうと決めて冒頭を数行書いたら、不思議としっくりきました。それがなぜなのかはわからなかったのですが、今、又吉さんのお話を伺いながらその理由がわかったような気がします。