「俺を馬鹿にしているのか!」でキレる大学教授の抱える「歪み」 他人を不幸にする「歪んだ幸せを求める人」とは
俺を馬鹿にするな!
“俺(私)のことを馬鹿にしているのか?”と思っていそうな人は、色んな場所で見かけます。大阪から三重県の伊勢市に向かう特急列車に乗っていたときのこと。車両は空いていて、私の他に旅行先に向かっているだろう年配の男性4人組も乗っていました。初夏なのでクーラーが効いているはずだったのですが、少し蒸し暑い感じでした。ただ我慢できないほどではありませんので、車掌が通っても誰も文句は言いません。 30分くらい経った頃、車内が涼しくなってきて過ごしやすくなりました。しばらくして車掌が戻ってきて、「すみません。間違えて暖房を入れていました」と謝罪してきました。すでに涼しくなっていますので、特にクレームをつけるまでもなく私もただ頷いただけでした。ところがその男性グループの4人が一斉に怒り出し、車掌に対して「俺たちを馬鹿にしているのか」と怒鳴り始めたのです。それまで何も文句を言わずに、車内では陽気に過ごしていたのに、です。その人たちは逆に、普段からクレームをつけられるような立場だったのでしょうか。いずれにしても、予想しにくいほどに“馬鹿にされた”と感じ、過剰に反応する人たちがいるのです。 コンビニ店員の態度が悪かったと母子でクレームをつけ、母親が店員に暴力をふるったことに加担して女子少年院に入ってきた、高校生年齢の女子少年もいました。また細い通路をすれ違ったとき、そもそも道を譲ろうとしない若者に怒りを感じる年配の方もおられます。もともと劣等感が強かったり、高い地位にあり普段みんなからちやほやされ自尊心が肥大したりしている場合に、こういった過剰な怒りが生じるようです。 自分(たち)が馬鹿にされている、自分(たち)の思い通りにならないといった怒りには、自分だけ連絡がない、自分だけ対応が遅いといった個人的なものから、国家の威信が傷つけられたといった国際問題につながるようなスケールのものもありますので、単に、“そんなことで怒っても”と片付けられないものでもあります。“馬鹿にされず尊重されたい”というのは幸せを感じるために必要なことです。 しかし、馬鹿にされたと感じたときに生じるのは、多くの場合、動物的な怒りであり、それが時には相手に対する攻撃に転じることもあります。万が一、傷害事件につながるようなことになれば、双方が幸せから遠ざかることになります。自分の作ったご飯を食べない子どもに対して虐待を行った親から、「子どもに馬鹿にされたと感じたから」と聞いたこともあります。これも自身を否定されたと思ったことに起因する「怒りの歪み」と言えるでしょう。 *** こうした「歪み」を抱えないようにするには、相手のストーリー(事情)を理解することが役立つ、と宮口さんは説いている。ただ一方で、そのように相手のことを理解する能力に欠けた人も珍しくない。宮口さんが医療少年院で接してきた少年にもそういうタイプが一定数いたのだという。実社会でも同様であるし、決して他人事ではない。 常に自分自身が何らかの「歪み」を抱えていないか、チェックする習慣があってもいいのかもしれない。
デイリー新潮編集部
新潮社