大谷翔平のライバルだった“青森の天才”とは何者か? 2人の対決を見た関係者「大坂君の方が有名だった」「決勝で2人ともホームラン」あの怪物は今
今年、30歳を迎える大谷翔平世代、いわゆる1994年度生まれの代。振り返れば小・中、高校時代には“大谷以上の怪物”といって差し支えなかった男たちがいた。大谷世代の“天才たち”の人生と、愛憎混じる野球への思い――「大谷が衝撃を受けた男」大坂智哉の証言。【全4回の2回目/1・3・4回も公開中】 【実際の写真】大谷翔平が「彼にはかなわない」と言った…“青森の怪物12歳”、実際の投球シーン。敵なしだった小学から「何をしていたんだろう…」と悔やむ中学、現在まで。“宮城・女川町”を訪ねた最新カットまで一気に見る ◆◆◆ 水沢パイレーツのシャツは緑色で、袖の部分だけがオレンジ色だった。にんじんを思わせる独特の配色に身を包んだチームの中に頭一つ抜けている選手がいた。それが大谷翔平だった。
大谷もいた東北大会「ナンバー1投手は大坂君」
福島リトルの監督を務めていた佐藤英明(現・総監督)もその試合まで大谷の名前を聞いたことがなかったという。 「当時はそこまで遠征が盛んではなかったし、今ほど情報も飛び交っていませんでしたから」 だが、そんな佐藤でも岩手よりもさらに遠い地、八戸市でプレーする選手の名前は聞いたことがあった。佐藤は私が大坂智哉の名前を口にする前にこう言った。 「左投手で大坂君という子がいたんですよ。彼の名前は以前にちらっと聞いたことはありました。青森のチームだったんですけど、今大会のナンバー1投手は大坂君だろう、と言われていました」
「ベンチがざわざわ」中1夏、大谷の伝説
福島リトルは、大谷の情報をまったく持たぬまま試合に臨んだ。そしてブルペンで投球する大谷のボールを見て、目を見開かされることになる。佐藤が言う。 「うちのエースも117キロくらい出ていたんです。でも、それよりも明らかに速かったですから」 リトルリーグのグラウンドの大きさは、一般男子のソフトボールとほぼ同じだ。ピッチャーズプレートから本塁までの距離は14.03メートルしかない。通常の規格だと、その約1.3倍の18.44メートルある。したがって理論上、リトルにおけるボールの体感速度は通常の距離の約1.3倍にもなるという。 佐藤の証言から推量するに当時の大谷は120キロ以上出ていたと思われる。となると打席での体感速度は150キロ以上にもなる。 福島リトルの「四番・エース」で、やはり大谷世代の笹川裕二郎の記憶もそれを裏付ける。 「指を離れた瞬間、そのまま届くっていう感覚です。ストレートが速過ぎて、まず見えない。その上、今でいうスイーパーみたいなスライダーも投げていたので。私は左打ちだったのですが、最初の打席、変化球を空振りしたら、ボールが足に当たったんですよ。それぐらい内側に食い込んできた。もう、何とかしようにも何ともできなかったという……」 福島リトルも打線には自信を持っていた。ストレートは何とかバットに当たるのだが、そこにスライダーを混ぜられるともはやお手上げだった。福島リトルは1回から3回まで全員が三振だった。つまり、9者連続三振である。佐藤の回想だ。 「ベンチはずっとざわざわしているような感じですよね。4割、5割くらい打ってる子が、簡単に三振してしまうわけですから。いちばん厄介だったのはスライダーです。選手たちは『見えない』って言ってましたね」 リトルリーグの試合は6回までだ。大谷はこの試合、18個のアウトのうち、じつに17個までを三振で奪ったのだった。
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