大騒動の渦中にいた広野功が振り返る「黒い霧事件」八百長騒動に心が折れかかっていた男に舞い込んだ2度目のトレード
現役時代、板東英二や堀内恒夫、稲尾和久、川上哲治、王貞治、長嶋茂雄、星野仙一ら、日本球界に名を刻む猛者たちと対峙(たいじ)した、広野功さん。 【画像】中日ドラゴンズ時代の広野功さん 沼澤典史さんの著書『野球に翻弄された男 広野功・伝』(扶桑社)は、100年近い歴史を持つ日本のプロ野球の中で、その節目に立ち会う広野さんの野球に愛され、翻弄された人生をまとめた一冊。 幻のメジャー契約、第1回ドラフト、長嶋茂雄の引退試合を経験し、引退後には新聞記者を経て指導者に転じるなど、野球に関わり続けてきた。 1966年にドラフト1期生として中日ドラゴンズに入団後、1968年には西鉄ライオンズに移籍。そこで直面した「黒い霧事件」と広野の心の揺れ動きを一部抜粋・再編集して紹介する。
現役選手の八百長発覚で大騒動に
1969年10月8日、西鉄はピッチャーの永易将之が八百長を行っていたとして、今季限りで退団させることを決定した。 7月上旬から八百長の疑いをかけていた球団は、密かに身辺調査などを行っていたのだ。これをきっかけに、次々とプロ野球関係者が金銭授受に伴う八百長に関与したことが発覚。 「黒い霧事件」の発生である。 「その年は暮れにかけて社会部の記者が20人くらい球場に詰めかけるようになったんです。普段は運動部の顔なじみの記者しかいないのと比べたら、異様ですよ」 この大騒動の責任を取り、中西太が監督を辞任すると稲尾が新監督に就任することが決定。 永易は同年11月28日に永久追放処分を受け、翌年1970年にはエースの池永正明を含む3名も永久追放、2名が野球活動禁止処分、1名が厳重注意処分を受ける事態となった。 「池永は1970年の開幕戦の東映戦で投げたんですが、八百長を疑われても仕方がない内容でした。池永は四球を連発したあとに、張本勲と作道烝にホームランを打たれましてね。6失点で途中降板。そのまま球場を後にした池永を眼光鋭い社会部の記者が追っかけていっていましたわ」 かつて、「野武士軍団」という異名をとり、常勝チームだった西鉄は見る影もなく、黒い霧事件によって身売り説も囁かれるなど崩壊寸前に陥ったのである。