風呂キャンセル界隈?「日本の偉人」まさかの素顔。凄い人物でも部屋が汚い、そんな姿に親近感も
犯人の来島は犯行後、自ら命を絶っているが、大隈は、来島の葬儀に香典を持たせて側近を参列させたうえ、のちには追悼演説まで行っているという。自分の命を奪おうとした相手に対して、その寛容さには驚くばかりである。 ■適材適所で周囲に頼る大隈重信 そんな不屈の魂を持つ大隈にも、あるコンプレックスがあった。それは「字を書くこと」。学生時代のクラスに字がうまい友人がいたため、大隈は「自分は字が汚い」と落ち込み、それ以降、文字を書くことをやめてしまったという。
一国の総理にもかかわらず、そんなことが可能なのかと思うが、大隈はいつも口頭で指示をして、誰かに文字を書かせていたという。字を書くのが苦手なだけで、文章力は高かったらしい。不思議と大隈に言われたとおりに筆記すれば、立派な文章になったとか。 実際のところ、大隈が残した数少ない文字は、17歳ごろに寄せ書きした自作の漢詩と、明治天皇にあてた本籍移転を承諾する文書くらいだった。 「苦手なことを一切しない」というスタンスにはやや呆れてしまうが、案外にこの「強靭な意思」と「適材適所で周囲に頼る力」が、大隈を名宰相にしたのかもしれない。
1位:部屋が汚すぎて93回引っ越した葛飾北斎 江戸の浮世絵師・葛飾北斎は、国内のみならず、世界中のアーティストに影響を与えた。 画家のゴッホは 葛飾北斎の代表作『富嶽三十六景』を絶賛。また作曲家のドビュッシーは交響詩『海』を作曲するにあたって、やはり『富嶽三十六景』から着想を得たという。 もし、そんな北斎に「絵が上達するコツは何ですか?」と質問したならば、「ひたすら描くことだ」という答えが返ってきたに違いない。
13歳から貸本屋で本の挿絵を観て勉強をスタートさせ、彫刻家のもとで文字彫りなどを学んだのち、19歳で浮世絵へ転換。浮世絵界の巨匠・勝川春章に入門したが、1人の師に学ぶだけでは満足せず、狩野派の画家のもとでも修業を積むことで、和漢洋の技法を広く取り入れている。木版画や狂歌絵本のほか、錦絵、肉筆画と、ありとあらゆる分野に挑戦しながら、世界一の画工となるべくひた走った。 ■荒れ果てた部屋で親子で絵に没頭