『電波少年』シリーズの「T部長」テレビプロデューサー・土屋敏男、番組が生まれた背景を語る
『進め!電波少年』(1992~2002)の「T部長」として知られるテレビプロデューサーの土屋敏男。アポなし企画で大人気となった『電波少年』が生まれた背景は? そのTHE CHANGEに迫る。【第1回/全2回】 ■【画像】伝説を作った「T部長」 『電波少年』シリーズの「T部長」として知られるようになって、僕にコワモテの印象を持たれている人も多いと思うんですけど、日本テレビに入社した当時は、まじめでおとなしく、そして素直な社員だったんですよ。 当時、テレビ業界ではフジテレビが全盛で、日本テレビの業績はかなり悪くて、テレビ東京のちょっと上くらい(笑)。そんな中で、若手を抜擢しようとなって、僕も番組を任されることになります。それが30歳のときでした。今から考えても、かなり若い時期ですよね。 まず、金曜日夜7時というゴールデンタイムを任されます。当時の上司に「どんな企画をやればいいんですか?」って聞くと、TBSで『風雲たけし城』が人気だったので、「あんな感じのものをやれ」と言われました。そこでタレントを使ったゲームもので、素人が戦うという内容の『ニッポン快汗マップ ガムシャラ十勇士!!』という番組を始めます。山田邦子と柳沢慎吾が司会で、企画もタレントも悪くないと思っていたのですが、これが大失敗。視聴率が最初は1.4%でしたね。結局、半年で打ち切りです。 続いて、担当することになったのが、日曜の昼の枠でした。そこで先ほどの上司に「今度はどんな企画がいいと思いますか?」と聞きにいくと「フジテレビで『ねるとん紅鯨団』っていうのが話題だから、ああいうのがいいだろう」と言われました。そこで、『恋々!! ときめき倶楽部』というタイトルで、ひとりの女の子に対して、複数の男の子がプロポーズをするという番組を始めます。MCに渡辺徹と鳥越マリを起用して、さらに本格的な東京進出前のダウンタウンがレポーターだったのですが、この番組も視聴率は3%程度。失敗でした。 人気番組をマネしても、志の低さや番組に対する熱量は視聴者にはバレてしまうんですよね。そんな番組を視聴者は見てくれません。 さすがに、ここまですべて失敗していると、局内では「こいつ、ダメだな」っていう見られ方をされます。結局は制作から異動になり、その後、再び制作に戻るのですが、僕の評価はすでに最悪なので、まったく仕事を任されなくなりました。