日露戦争での苦戦を反省して開発された【45式24cm榴弾砲(攻城砲)】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 大口径砲は、絶大な威力を発揮するが移動に大変な手間と時間が必要だ。しかし日本陸軍は、日露戦争時における敵の堅固な防御陣地に対する砲撃の経験から、大口径の榴弾砲(りゅうだんほう)ながら、固定式ではなく移動が可能な攻城砲の必要性を認識した。 そこで、いくつかの大口径の榴弾砲が試作されて試験に供された結果、威力と機動性のバランスから24cm榴弾砲が適切との判断が下された。 かくして1912年、45式24cm榴弾砲が制式化された。本砲は敵陣への砲撃のみならず、沿岸防衛用としての運用も考えられていた。本砲は、大きく移動可能砲床、架匡、砲架、遥架、砲身に分解することができ、運搬車に載せられて牽引された。1門の牽引に際しては、馬なら約110頭、牽引トラクターやトラックなら13~15両が必要とされた。 45式24cm榴弾砲の初陣は、第1次世界大戦中の青島攻略である。移動と設置に長い時間が必要だったのはやむを得なかったが、相応の威力を発揮して効果を示した。とはいえ、全4門が運用されたものの、そのうちの2門で事故が生じて砲が損傷している。 また、太平洋戦争の緒戦ではフィリピンの戦いや香港の攻略で、敵の重防御陣地や堡塁の破壊に大活躍した。他にも、日本本土や小笠原諸島、満州などにも配備されていた。 前提として、日本軍砲兵はきわめて練度が高く優秀だったため、太平洋戦争の緒戦のように兵站が円滑に行われるならば、本砲をはじめとした日本陸軍のさまざまな火砲は、いずれも大活躍したに違いない。だが貧弱な兵站(へいたん)能力と、国家としては根源的な弱点というべき生産能力の限界が、「海国」を自負していたせいで二の次あつかいをされていた日本陸軍の実情を生んだといえよう。 またこれだけでなく、簡単に言えば「大口径砲の役割を航空爆撃に代行させる」という陸軍自らの発想も、大口径砲の整備や運用にいくばくかの影響を与えていたであろうことは否めない。 なお、45式24cm榴弾砲の総生産数は約80門と伝えられる。
白石 光