御嶽山の噴火から10年…その時、山中にいた唯一の警察官は
9月27日午前11時52分。10年前のその時、平田純さん(35)は、御嶽山の8合目付近にいた。岐阜県警の警察官になって3年目。下呂署に所属する山岳警備隊員として、登山道をパトロール中だった。 「御嶽山が噴火した」。県警本部から無線が入ったが、まだ半信半疑だった。少し前、ゴロゴロという音が聞こえた。「雷でも落ちたのではないか」。だが、降り始めた雨がザックの表面に灰色の斑点をつくるのを見て息をのんだ。「これは火山灰だ……」 毎年7~10月の登山シーズン、御嶽山の登山道をパトロールするのが下呂署の任務だ。平田さんはその日が当番で、下呂市職員と森林組合員との3人で午前9時から山に入っていた。 ◇ 無線の指示に従って歩みを進め、午後0時40分頃、標高約2800メートル地点の「五の池小屋」に到着した。 そこには約50人が避難していた。降り積もった火山灰に足をとられながらも、ひたすら下山道へ誘導した。その後も、噴火の状況がわからないまま、救助要請が次々に山小屋や無線に入る。 「賽(さい)の河原」近くの避難小屋には15人ほどが身を寄せていて、1人の女性は骨折していて動けなかった。他の登山者たちと交代で背負いながら、五の池小屋へ引き返す道中、今度はヘリが、助けを求めて合図を送る登山者を見つけたという。 女性が五の池小屋へ搬送されるのを見届け、再び山頂方面へ。そこには8人がいて、小学校低学年くらいの男の子から、「親戚の子が亡くなった」と言われたのが忘れられない。山小屋の従業員とともに隊列を組み、あたりがほぼ暗くなった午後6時前、五の池小屋にたどりついた。 「ようがんばったな」。下呂署から先輩たちが駆けつけていて、ねぎらわれた。噴火の全容は、山小屋にあったテレビのニュースで把握し、今いる場所への恐怖を初めて感じた。 妻に電話すると、「すごく心配したよ」と言われた。妻は泣いていたが、家族の声を聞くことができて気持ちがようやく安らいだ。翌日、合流した同僚と一緒に下山した。 ◇ 出身は岐阜県関市。進学した大学のある青森県にいた時に東日本大震災が起きた。伯父が警察官だったこともあり、「災害救助にかかわる仕事に就きたい」と思うようになった。 御嶽山には中学時代にボーイスカウトで登ったことがあった。森林限界を越えると目の前に美しい稜線が広がり、感動した思い出が残る。 だが、改めて向き合った御嶽山で痛感したのは自らの非力さだった。噴火時に山中にいた唯一の警察官。その役割を十分に果たせたのだろうかと自問自答した。 噴火では58人が亡くなり、5人が行方不明となった。「もっと速く動ける力があれば、命を落とさずにすんだ人がいるかもしれない……」 ◇ あの日に着ていた青いTシャツは今も大切に保管してある。袖が破れ、胸元のロゴもとれて色あせたが、捨てられない。悔しい気持ち、自然の厳しさ、人の命を救う尊さ……。これを見ると、大切なことを思い出すからだ。 昨秋からは、各務原署の交通課に所属し、飲酒運転や違反車両などの取り締まりにあたっている。「山岳救助も交通事故を防ぐのも、命を守る仕事。そういう気持ちでこれからも頑張っていきたい」
【取材後記】
噴火時に山中にいた唯一の警察官。平田さんは、そのことを武勇伝として自ら語ることはない。人から質問された時にだけ答えるという。「自分にもっと力があれば……」。10年が経過した今も、平田さんはそう言って悔やむ。しかし、何も状況がわからない中、自らの危険を顧みず、多くの人々を助けたことは間違いない。謙虚に任務に向き合い続ける姿勢に感銘を受けた。(林昂汰 22歳)