大阪観光・周遊バス仕掛け人「バス停留所の確保は苦労した」
バス停留所を確保するのが非常に難しかった
堀理事長は「ここに至るまで随分と苦労しました。まとめるのに3年かかりましたから」とバスが走るまでのことを振り返った。 行政や大阪観光局、経済界の人たちと話を重ねる中で「大阪をもっとよりよくしたい」「外国人が観光に行くのに迷わないようにしたい」という話を耳にし、そこからこの企画が始まった。周遊バスを求める声は実は10年以上前からあったが、収益性への懸念や路線バスとの競合に対する抵抗感から見送られてきたという。 行政の人たちからは「お金は一銭も出されへんけど、できる限りバックアップする」「民間でお金を集め、堀さん、何とかしてもらえませんか」と言われ、堀理事長は社員みんなでスキームを考え始めた。 当初は企業を回って協力を要請したが反応は乏しく、実現を信じてもらえなかった。一番苦労したのは協力者集めではなく、実はバス停留所の設置だった。「大阪の場合は、大手私鉄4社と大阪市内は市の交通局があり、バス停留所を確保するのが非常に難しく、特に交通量の多い大阪市内はバス停留所がつくれない状況だったんです」 停留所の設置には近畿運輸局、大阪市建設局、大阪府警察などから許認可を得る必要がある。運行計画を出し、各バス停留所の所轄警察署すべてを訪ね手続きを行った。1つのバス停留所の許可を取るのに9か所回ったことも。そんな交渉を3年間続けた。 始めた頃は「インバウンド」という言葉もあまり知られていなかった。それでもあきらめずに企業に呼びかけたところ「大丸松坂屋百貨店、大起水産、串かつだるま、上新電機など地元の会社のオーナーさんたちが続々と支援してくれるようになり、少しずつ前に進み始めたんです。最終的には大阪市の経済戦略局のバックアップを得て、実現に至ったんです」と堀さんは話す。
バスの次は船を導入、免許取得も
堀さんは、なぜそこまで情熱を傾けることができたのか。それは、これまでの生き方に秘密があった。21歳で独立して、不動産の開発の仕事をして交渉事が得意だった。そして、アメリカにずっと住んでいたため英語を話すことができ、それを活用した仕事もしたいと思っていたという。 しかしこんな苦い経験も。アメリカの従兄弟が日本に来た時に「大阪がおもしろくない」と話したという。「帰る前に『どこ行きたい?』って聞いたら『ドンキー』とか『百均』と言って。それにもビックリでしたけど」と話す。 大阪はもっと楽しいし、また来たいって思って欲しい、観光しやすい街にしたい。すべてはそんな情熱から始まったが、挑戦はバス運行だけではなかった。 「どうしてもバス停留所を作りたかったし、それは実現できた。でも、バスは一方通行が多いから、道頓堀から大阪城に行くには逆走しないといけない。けど、それはできない」。しかし、そんな時、ひとつの考えが頭に浮かんだ。「船なら逆走できる。船なら大阪城から難波まで30分くらいで行けると思いついたんです」 そして、船の導入を決め、アメリカのミネソタ州までたった1人で買いつけに行った。ビル1つもないミネソタ州の田舎町にボートが200艇くらいあった。船を販売する会社の社長に「いまはネットで仕入れるから、君みたいに来る奴はいないよ」と言われ、家に泊めてもらった。 購入した船は、コンテナで日本に運んできた。当時は操縦する人がおらず、堀理事長は二級小型船舶免許をすぐに取得。最悪、船長がいなかったら自分で運転しようと思ったのだ。