高圧的に怒鳴る、命令する指導者は時代遅れ? ビジャレアルが取り組む、新時代の民主的チーム作りと選手育成法
サイコロジストは意見してオピニオンを形成する仕事ではない
――今思い出したんだけど、改革のワークに取り組む前に私自身の起源というか、私という人間がどこから成り立っているかというリフレクションをしたよね? L:それについては、ユリコはこんなことを話してました。「そもそも私のマインドとか物事の考え方とか基準は、スペインで生まれ育った選手たちとまったく異なる気がする。そこへの不安にどのようにアプローチをすれば、彼女(選手)たちが必要としているものに近づけるのか。そこが、いまいちわからない」って。 ――よく覚えてるね。私はその当時、すでに20年間スペインにいてフットボールにかかわっていました。自分が選手だったときもチームメイトの考え方や反応の仕方や発言を見ながら、まったく違う生き物なんだなって感じていた。それが指導者になって「私は彼らとは違う生き物なのに、どう折り合いをつけていくの?」って不安を感じていた。 L:大きな違いは「権威への畏れ」だと思います。日本の教育を受けるなかで、出会った大人や教師もしくは指導者は絶対的な権威を持っていて、彼らに逆らうことはできないし意見することもできない。だから「従うことに慣れていた」と話してくれましたよね。権威を恐れるというより、そこには目上の人を敬わなきゃいけないという気持ちもうかがえました。 ――でも、いつも通り何も言わなかったよね。 L:はい。私たちサイコロジストはジャッジするわけでも、意見してオピニオンを形成する仕事でもありません。だから私はユリコに何ら指示命令していません。ただ情報として大切なものを預からせてもらって、あなたが新たな道を見つけるのを支援しただけ。もっといえば、私が学ばさせてもらった感覚のほうが大きい。サイコロジストとして成長支援をするうえで大きな学びがありました。すごく感謝しています。
ニーズと現状に応じて適切に色彩を変えられる指導者が必要
――ところで、私は「日本人だから従うことに慣れている」って言ったけど、スペインの選手も実はそういう側面があったのでは? L:とてもいい質問ですね。それでいうと、今はもうクラブにいなくなってしまった方ですけど、大ベテランの男性コーチを思い出しました。そのコーチがあるシーズン受け持ったのは、主体性というものがまったくもって育ってきていない選手が揃ったチームでした。 自分たちで考えて判断するとか主体的な意見が何もない。彼が「この空間ではみんな自由に言っていいんだよ、全員の意見が許容されるんだよ」と言ったところで機能しませんでした。 ――うん。改革がスタートして間もない時期は、そういった状況はそこここにあったね。そのような変容や改革期のことを「トランスフォーメーション」(※)と表現することがあるけど、日本の指導者にも同じ葛藤を抱えている人は多いと思う。 L:そのコーチは主体性を持たせるチーム作りを信じてきました。けれども、チームは迷子になっている。自分の理想を貫くことが彼らにとって良いかと言えば、そのときはNOでした。道に迷ってしまってどうしていいかわからない選手たちに対し、そこでは異なる道を選択。ある程度型にはめてオリエンテーションすることにしたのです。これはこうしよう、ああしようと、まずはコーチから投げてあげる。それが選手にとって必要な時間であることに気づいたのです。 (※)変容、変質。DX(デジタル・トランスフォーメーション)、GX(グリーン・トランスフォーメーション)など、他分野でもよく用いられる。 ――つまり、本来の自分とは違うリーダー像を提供した。 L:そういうことです。指示命令してやらせることを卒業しようと改革は進んだけれど、そうじゃない場面もあったのです。当然ながら、指示命令型の指導のもと従順な選手を育てる従来の形から、主体性を育むような指導へとトランスフォーメーションを試みる。そのことはクラブにとって、組織としての責任でもあると受け止めていました。ただ、指導者のあり方はひとつではありません。さまざまなリーダーのかたちがある。そのバリエーションを自由自在に、臨機応変に使える人が求められると私は考えています。特に改革期には。 ――具体的に言うと? L:例えば指示命令型であったり、抑圧的であったり、高圧的であったりするコーチがいる一方で、選手の主体性を育むため、彼らを尊重してすべて委ねる人もいる。あくまでも理想は後者ですが、二つのリーダー像の間にはグラデーションのように何百種類もの形や色彩があります。それを踏まえて、リーダー像をニーズと現状に応じて自分で変えていく。適切に色彩を変えられる指導者を私たちは育てなくてはなりません。