家康が介入するほどに激化した宇喜多秀家の「人事」
■秀家が理想とした「人事」への反発 宇喜多秀家(うきたひでいえ)は梟雄(きょうゆう)とされる父直家(なおいえ)とは違い、秀吉の猶子(ゆうし)としてお坊ちゃんのように育てられた大名だったため、関ヶ原の戦いで敗れたというイメージが強いと思われます。 しかし、文禄の役では総大将として自ら軍を率いて出陣し、碧蹄館(へきていかん)の戦いなどで活躍しています。また、慶長の役でも左軍を率いる主将となっています。関ヶ原の戦いにおいても西軍の主力として1万7000の兵を率いて、福島正則(ふくしままさのり)隊と激戦を繰り広げています。 加えて、秀家は戦費の捻出や補填のため、家中の財政改革などにも積極的に取り組むなど、リーダーとしての一面も有しています。 ただ、改革のために行った「人事」が、宇喜多家を揺るがす大規模な御家騒動へと繋がり、徳川家康(とくがわいえやす)の介入を招いてしまいます。その事が、秀家のイメージを悪化させていると思われます。 ■「人事」とは? 「人事」とは辞書によると「官公庁、学校、会社などで、人の採用、転任、退職や身分、職務、能力などに関する事柄」とされています。現代においては「組織の目標達成のための人材を確保し、その人材を活用するための仕組みや環境を整えること」とあり、評価制度や報奨の仕組みなども含まれるため、組織を運営するにおいて、「人事」は非常に重要な要素です。 大きな変革にともなうような「人事」においては、不安や不満を感じたメンバーのモチベーションの低下や反発を招く事が多く、実施方法やタイミングには注意が必要と言われています。秀家も父直家が選んだ家老衆による集団指導体制から、秀家自身が信任した側近による集権体制へ切り替えようと、やや強引に「人事」に着手します。 ■宇喜多家の事績 宇喜多家は備前を本貫とする国衆として浦上家の傘下にあったと言われていますが、出自ははっきりとしていません。父直家の時代に浦上宗景(うらがみむねかげ)に従って勢力を拡大し、最終的には毛利家と結んで宗景と対立し、独立を果たします。独立までの過程において、直家が取った一部の行動から梟雄というイメージを持たれるようになったようです。 その後、織田家へと寝返り、中国方面の司令官羽柴秀吉(はしばひでよし)の信任を得ると、毛利家の抑えとして重用されるようになります。直家の死後、幼少だった秀家は秀吉の猶子となり、宇喜多家は叔父忠家(ただいえ)を中心に運営されていきます。宇喜多家は、秀吉が天下を統一する過程において、小牧長久手の戦いから小田原征伐までの数々の戦に貢献します。 そして秀家は秀吉の養女豪姫(ごうひめ)を娶(めと)り、豊臣家の一門衆に準ずる扱いを受けるようになり、文禄慶長の役では高い地位について遠征に加わっています。しかし、度重なる遠征のための戦費や豊臣政権内での交際に関する出費が嵩み、宇喜多家の財政改革が必要となります。 ■父直家が残した体制の変革 直家は幼少の秀家のために、信頼できる家老衆による集団指導制体を作りました。一門衆である叔父忠家を後見役とし、戸川秀安(とがわひでやす)、岡家利(おかいえとし)、長船貞親(おさふねさだちか)の宇喜多家三老を中心にしたものです。 秀家が成長するとともに、家老衆も引退や死去によって世代交代が始まります。秀安の後を継いだ達安を中心として運営されていましたが、秀家はこれを突如として解任し、貞親の嫡子綱直(つななお)に、新参の中村次郎兵衛を中心にした体制へと変更します。 これは集団指導体制から秀家が主導できる体制の構築を図ったものでした。綱直が選ばれたのは秀吉から高く評価されていた事に加えて、財政に明るい点も期待されたものだと言われています。次郎兵衛は豪姫に付き添う形で前田家から来た外様の家臣ですが、年貢の算用など経理に明るい上、土木工事技術にも優れているなど有能な人材です。 秀家は旧来の達安たち譜代家臣による集団指導体制から、当主を中心とした能力を重視する政治体制への変革を行いました。 しかし、解任された達安を中心に新体制への不満を持つ者たちとの争いが激化していきます。