「神」や「幽霊」をこの世に呼び出す…日本の「古典の登場人物」たちが「各地を放浪する」理由
「和歌」と聞くと、どことなく自分と縁遠い存在だと感じてしまう人もいるかもしれません。 【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」 しかし、和歌はミュージカルにおける歌のような存在。何度か読み、うたってみて、和歌を「体に染み込ませ」ていくと、それまで無味乾燥だと感じていた古典文学が、彩り豊かなキラキラとした世界に変わりうる……能楽師の安田登氏はそんなふうに言います。 安田氏の新著『「うた」で読む日本のすごい古典』から、そんな「和歌のマジック」についてご紹介していきます(第九回)。 『日本の「和歌」という文化は、じつはこんなにスゴかった…ほかの国の「詩」と違っているところ』より続く
シテとワキ
私は能楽のワキ方に属する役者です。 多くの方が「能」といってイメージする、能面をかけて舞を舞っている役者、あちらはシテ方の役者で、演劇やドラマでいえば主役です。では、ワキ方は脇役なのかというと、それはちょっと違います。 能の演目は「夢幻能」と「現在能」というふたつに分類することができます。夢幻能のシテは、たとえば神様、たとえば幽霊、たとえば動植物の精霊など、本来は不可視の存在です。この世のものでない。その、この世のものではないシテを、この世に呼び出す、それがワキの役割です。 ワキがこのようなことができるのは、この世とあの世との「あはひ」に生きる者だからです。ワキという語は「分く」の連用形、すなわちふたつの世界の「あはひ=境界」が原義です。ワキは、死者と生者とのあはひ、神と人とのあはひに生きる者です。 あはひに生きるワキには定住の地はありません。多くが漂泊の旅人です。それに対して、シテはその土地に鎮座まします神霊であったり、あるいは念を残した(残念)まま亡くなり、その地に宿った幽霊であったりします。ですから能の幽霊は、あまり移動をしません。「残念」を抱えたままその地に留まり、念いを解き放ってくれる旅人の通過を待ちます。 そして、旅するワキの道中は「道行」と呼ばれる謡で表現されます。能『敦盛』のワキである蓮生(れんせい・れんしょう)法師(熊谷次郎直実)の、都から一の谷(神戸市須磨区)までの道行はこうです。 九重の雲井を出でて行く月の 雲井を出でて行く月の 南に廻る小車の 淀 山崎を打ち過ぎて 昆陽の池水 生田川 波こゝもとや須磨の浦 一の谷にも着きにけり 一の谷にも着きにけり