国家という怪物相手に違憲訴訟に素手で挑む(上) 婚外子差別の根絶求める富澤由子の闘い
富澤由子、73歳。二つの違憲・国家賠償請求裁判を、弁護士を立てない本人訴訟で闘っている。事実婚で子どもの出生届を出すときに味わった根深い「婚外子」差別、そして相続裁判で生来の姓を使えなかった「私の苦痛」――自らの結婚、出産、相続での体験をもとに、国と司法に変革を迫る。人生の後半に想像を絶する労力と時間をかけ、本人訴訟に同時並行で挑んだ。この闘い方を、富澤はなぜ選んだのか。
3月21日、東京地裁。富澤由子は春らしいベージュの服で現れた。「国に文句をつけているけど、穏やかな印象をもってもらえたらと思って」。南洋の花に囲まれて燃えるろうそくの絵も持ってきた。原画は「原爆の図」や「沖縄戦の図」で知られる画家丸木俊がパラオで描いたもので、出産の陣痛のときも、女性たちと運動を始めたときも、傍に置いて支えにした。持参したのは拡大コピー版だ。
声をあげて道を開く
この日は、出生届で「嫡出子」か「嫡出でない子」かを書かせる戸籍法の規定は法の下の平等を定めた憲法14条などに違反していると訴える「差別しない権利・差別なく生む権利訴訟」での本人尋問の日だ。裁判官や国側代理人に直接思いを伝えられる最初で最後の機会。裁判長は「富澤さん」と彼女が望む生来の姓で呼びかけ、富澤は静かな声で語り続ける。 「40年訴え続けても国連から繰り返し勧告されても、この国は変わらない。女性の出産を選別し、婚姻届を出さずに産んだ母と子を蔑視し差別し続ける社会でよいのかを司法に問いかけています」 1950年、東京で3人姉妹の末っ子として生まれた富澤は黒いランドセルを買ってもらって喜び、間違っていると思うと迷わず先生を質す小学生だった。高校生になると、男女で体育の種目が違うのはおかしいと訴え、女子もサッカーと剣道ができるようになった。短大卒業後、特殊法人(当時)のアジア経済研究所に就職。広報や機関誌編集の仕事をするかたわら組合運動に携わった。研究所が職員採用で「男子に限る」と条件をつけたときは、憲法学者で社会党の衆議院議員だった土井たか子を巻き込み、朝日新聞記者の松井やよりが報道して、「男女募集」と変えることができた。このときの体験が、その後の富澤の行動理念をつくったといえる。 80年代初頭、労働運動を通じて別の政府系機関で働いていた藤田成吉(79歳)と出会う。互いの姓を尊重すること、共同で家事や育児をすることを約束し、婚姻届を出さない事実婚をした。双方の両親は理解して喜んでくれたが、富澤の2人の姉とその夫たちは「婚姻届を出さないなんて、家の恥だ」と絶縁状態になった。