国家という怪物相手に違憲訴訟に素手で挑む(上) 婚外子差別の根絶求める富澤由子の闘い
息子の出生届が不受理
83年に望んでいた妊娠が分かったとき、「男だったら藤田、女だったら富澤の姓に」と申し合わせた。生まれてきたのは男の子。2人で出生証明書を携え、出産に立ち会ってくれた友人2人を伴って東京・杉並区役所に出生届を出しにいった。届には父親の姓で子どもの氏名を書き、父親欄に藤田の名前を書いた。届出人も藤田で「父」にチェックを入れた。「父母との続き柄」欄にある「嫡出子」「嫡出でない子」はどちらもチェックせず空欄のままにした。 「生まれてきた子が嫡出かそうでないかの選別を親に強制するなど人権侵害そのものだと思った。自分の子は嫡出子だから『正統』でよかった思うことも差別につながっていく」と富澤はいう。 区役所は東京法務局に伺いを立てたが、出生届は不受理。法務局長の指示書には「(結婚していない母親から生まれた子には父親がいないはずだから)父の欄に名前を書いたり、届出人になったりすることはできない。子どもが藤田を名乗ることもできない」との趣旨が書かれていた。現に母と父がいて、証明してくれる人もいるのに、差別的で事実と違う記述をしなければ受理しないという硬直した姿勢に唖然とした。 以後12年間、息子は戸籍も住民票もない状態に。乳幼児健診や予防接種の通知は届かず、そのたびに「特別願」を書く。小学校の就学通知も届かなかった。教育委員会の指示で学校に面接に行くと、教頭から藤田は「あなたは父親とはいえない」と言われ、息子の前で「この子は非嫡出子だね」という言葉を浴びせられた。PTA役員会で「戸籍も作らない酷い親の子が入ってくる」と流布され、息子は偏見に満ちた先入観の中で通学しなければならなかった。
差別撤廃に立ち上がる
富澤は「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会(行動する女たちの会)」で家族法改正グループを作り、運動を始める。婚外子は相続分が婚内子の半分という民法や戸籍法の規定を変えたいと89年に「出生差別の法改正を求める女たちの会」を立ち上げた。手紙や電話の相談が毎日のようにきた。出産直後の女性に付き添って役所に行き、戸籍がなくても住民票を作るように掛け合って、子育て支援を受けられるようにしたこともあった。 「女にとってこどもはすべて嫡出子」と書いたシールを作り、続き柄欄に貼ろうと呼びかけた。「すべての子どもはどんな理由でも差別されない」とうたう子どもの権利条約が90年に発効。日本が批准すれば、国内法を整備しなければならない。民法・戸籍法改正の絶好の機会と精力的に国会議員を訪ね、説得を重ねた。 91年、富澤は推されて杉並区議選に出て当選。社会党委員長になっていた土井たか子ブームで、女たちが次々と政治進出し「マドンナ旋風」と言われた頃。富澤は1人会派で3期12年務めた。多くの議題に取り組み、住民から相談があれば夜遅くでも飛び出していく。一方、藤田も職場で重責を担うようになり、残業続きで健康を害していた。「行かないでと泣く子を置き、私も泣きながら区議会などへ出て行きました。子どもが親を求めたときに私たちがそばにいてやれなかった。息子には本当に申し訳なかった……」と振り返る。 94年に再び、杉並区役所に息子の出生届を提出。記入の内容は83年のときと同じだ。このときも区役所は東京法務局に伺いを立て、今度は1年3カ月待たされたのち受理された。83年と何が違ったのか。95年の法務局の指示内容を知りたくて杉並区長に対し自己情報開示請求をしたが認められなかった。請求を繰り返して、開示されたのは2022年。法務局の考え方は1983年も95年も同じ。なぜ83年に受理されなかったのかとの思いが募った。 96年、法制審議会が選択的夫婦別姓制度導入と婚外子の相続差別撤廃の民法改正を答申。が、別姓反対派議員が阻止して法案は提出されなかった。富澤は婚外子差別の実態を伝えたいと、日本弁護士連合会に藤田と息子と3人で人権救済を申し立てた。日弁連の人権擁護委員会は翌年、出生届の「嫡出子」「嫡出でない子」の削除など戸籍法の改正を求める報告書をまとめ、法務大臣に要望書を提出した。しかし、改正にはつながらなかった。 (敬称略、下に続く)
室田 康子・ジャーナリスト。元『朝日新聞』、『朝日ジャーナル』記者