トランプ、サッチャーらの言動が映し出す「アイデンティティ」の複雑さとは?
大西洋の反対側でも同じような現象が見られる。2016年のアメリカ大統領選挙で保守派有権者を動員するカギとなった争点のひとつが、ドナルド・トランプの「壁を建設する」という公約だったことはすでに述べたとおりだが、この公約が代弁するようにヒスパニックの人々への反感があっても、共和党のほかの大統領候補のなかにクルーズやルビオといったヒスパニックの名前を持つ人物がいることは問題にされなかった。 またヒスパニックというアイデンティティは、時間と婚姻関係によって薄れていく[39]。今日では、カトリック信者を自称するヒスパニック2人に対して、プロテスタントを自称するヒスパニックが1人、どの宗教にも属していないヒスパニックが1人いる。しかも非カトリック教徒の割合が増えつつある[40]。宗教以外の面から見ても、移民後に2世、3世と世代が下るにつれてヒスパニックのアイデンティティは弱まり、異文化間の結婚がますます増えてきている[41]。 [39] Pew Research Center, 18 August 2019: https://www.pewresearch.org/facttank/2019/08/08/hispanic-women-no-longer-account-for-the-majority-ofimmigrant-births-in-the-u-s/(2020年9月8日閲覧). [40] Pew Research Center, 17 October 2017: https://www.pewforum. org/2019/10/17/in-u-s-decline-of-christianity-continues-at-rapid-pace/(2020年9月8日閲覧). [41] Pew Research Center, 20 December 2017: https://www.pewresearch.org/ hispanic/2017/12/20/hispanic-identity-fades-across-generations-as-immigrantconnections-fall-away/(2021年6月14日閲覧). 北米とヨーロッパの未来の民族構成がこれまでよりヨーロッパ的ではなくなることは間違いないとしても、遠く離れた場所からやってきた人々の多くは、新たな祖国となる欧米社会に溶け込んでいくだろう。そしてそこに取り込まれた数々のアイデンティティの性質が、アイデンティティというものが常にそうであるように、時とともに融合し、変化していくことになる。 13世紀のイングランド人は、10世紀のアングロサクソン人とは違っていた。異文化間の結婚によってますます多くの人が複数の文化的・民族的背景を持つようになるので、イギリス系の血が少ししか入っていない、あるいはまったく入っていない多くの人々が、イギリスという国、あるいはその構成国のひとつと自分を重ね合わせるようになるだろうし、同じことが欧米諸国のそれぞれで起こるだろう。 アメリカ合衆国は以前から、常により多くの「アメリカ人」を生み出す強力な機械だった。ヨーロッパ諸国もそうなる可能性が高い。ただしアメリカとは違って、今のところ自分たちを「移民の国」だとは思っていないので、この先どうなるかは移民人口の割合と、移民統合のスピード次第といったところである。 2020年代前半のロンドン、パリ、ニューヨークを見るかぎり、民族混合社会の誕生はごく自然な成り行きだと思えるが、歴史的にはそうは言いきれない。かつてイギリスやフランスが民族的に同質だった時代に、アルジェ、バグダッド、アレキサンドリアといった中東やアフリカの都市には宗教も出身国もばらばらな人々が集まっていた。 ところが今日ではその正反対で、これらの都市の特徴と言えば厳格な均質化であり、民族的分離が進んでいるところさえある。多民族国家という未来への道は一方通行ではない。一方通行に見えるとしたらそれは錯覚であり、歴史・地理上のほんの一部しか見ていない証拠である。
ポール・モーランド/橘 明美