「オッペンハイマー」と車椅子と左利きの私
今すぐは無理だ。しかしここまで何十年もその方向を目指してきて、今の状態に至ったのだし、今後もその方向を目指すことをやめてはいけない。 何よりも重要なことは、ハンディキャップのある人にとって過ごしやすい社会は、同時に健常者にとっても過ごしやすい社会だということである。足をけがした時に、痛みを我慢して階段を使わねばならないような社会よりは、その時にはエレベーターが使える社会のほうがずっと良いに決まっている。 そして誰もがいつ何時、事故や病気でハンディキャップを背負うことになるか分かったものではない、ということを意識する必要がある。 老いればハンディキャップを背負う確率は高まる。その意味では、我々は全員ハンディキャップ予備軍なのである。我々全体の問題である以上、ことは「我慢しろ」というような個人のレベルで解決すべきものではなく、社会全体として解決すべき問題となる。 だが、我々は飽きっぽく、忘れっぽい。映画館での車椅子の扱いなど、普段の生活の中では、なかなか視野の中には入ってこない。 だから、こういう今回のような「車椅子だと映画が鑑賞できない」というような問題が表面化した時には、まず「今まで見えていなかった問題が自分の視野に入り、意識するようになった」というところから考え始める必要がある。その上で「社会が目指すべき理想はどのような状態か」ということを意識してSNSで発言していくべきだろう。 「心身にハンディキャップがあるかないかというのは、単に社会の中で多数派か少数派かという問題だ」という言葉がある。 確かにそうなのだ。健常者とは、社会の多数派だ。社会の仕組みは、多数派に合わせてつくられている、というだけなのである。 例えば、目の見えない人のほうが多い社会がどうなるかを考えてみよう。夜になっても照明は不要だから、町も屋内も夜間照明はない。それが、今の社会に生きる目の見える健常者にとってどれほどの不便かはすぐに想像することができる。 あるいは、誰もが車椅子を使わなければ移動できない社会ならば、何よりも車椅子の利用が優先されるような社会の構造になっているだろう。歩道は車椅子道と呼ばれ、歩行者はその片隅を歩くことになるかもしれない。 だから「車椅子ユーザーの映画鑑賞」という問題は、「いつ何時、車椅子ユーザーになるか分かったものではない多数派が、その事実を意識した上で、少しずつでも社会システムの側を、車椅子ユーザーであっても健常者同様に映画を鑑賞できるような仕組みを整備していくことができるか」という方向で考えていくべきなのである。 ――と冒頭からかなり飛ばして書いてしまったが、もちろん相応の理由がある。 ●見えざるハンディキャップ 現在、日本における車椅子ユーザーの数は約200万人で、これは人口の1.57%だそうだ。「たった1.57%に、いったいどれだけの労力を社会が支払わねばならないのか」と考える人もいるだろうが、この1.57%は明日にも自分がなるかもしれない1.57%なので、社会が対応することは、全員の利益になるわけだ。 ところで、もっと人口比率では大きなハンディキャップが、この社会には存在しているのを意識しておられるだろうか。このハンディを抱える者は、この日本社会では実に人口の10%を超えるほど存在している。 そのハンディとは「左利き」だ。「え、なんだ。左利きか」と思う方は、恐らく右利きなのだろう。日本社会では右利きが88.5%、左利きが9.5%、両利きが2%ほどなのだそうだが、両利きの多くは左利きを幼少時に矯正した結果ということが多いので、自然状態では88.5%対11.5%程度らしい。 実は私は左利きである。文字だけは幼少時に矯正されたので右で書くが、その他はすべて左だ。その気になれば左手で文字を書くこともできる。 左利きがハンディだといっても、「左利きぐらい別に大したことない。むしろ左利きの人は器用だとも言うし、野球は左利きのほうが有利だ」というのが、大方の反応だろう。が、実際に左利きである自分の体験としては、確かに左利きは不利であった。 子どもの頃は文字を書くのがつらかった。いくら矯正したといっても右手ではどうしてもきれいな文字を書くことができず、小学校では「松浦君は文字が下手」ということになってしまった。もっとも左手で書いた文字がきれいということもなかったので、これは生来の不器用さの結果であろうけれども。