「オッペンハイマー」と車椅子と左利きの私
先だって、某SNS――などとぼかす必要もないか、ネットでは衆知のことだし――現「X」、というよりも今でも旧「Twitter」と書いたほうが通りがよいSNSでちょっとした騒動が発生した。 以下、個人の問題ではなく社会の問題としてとらえるために、固有名詞を省いて事態を要約する。 車椅子ユーザーがシネマコンプレックスへと映画鑑賞に行った際に、「当劇場は段差があって危ない。スタッフもそこまで時間があるわけではないので、今後はこの劇場以外で見てもらえれば」と言われたと書き込み、当該シネコンが「不適切な対応に関するお詫び」という文書で謝罪する事態になった。 私は傍観者でしかなかったのだが、驚いたのはSNSにおける車椅子ユーザー側への「わがまま言うな」という非難の多さだった。「施設をすぐに改修するわけにはいかないし、車椅子を介助するとしても、実際問題としてそれなりにスキルが必要になる。素人が車椅子の介助を行うとかえって事故の原因ともなりかねない。そういう状況ならば、車椅子ユーザーのほうが遠慮すべきではないか」というのだ。 ●我々はバリアフリーな社会を築き上げつつある 最初の書き込みをしたSNSユーザーは車椅子インフルエンサーを名乗り、常日ごろ自分のアカウントで積極的に角の立つ物言いをして車椅子への配慮を訴えていた。当たりのきつさには、これが関係しているのかもしれない。 こういう時は、目の前の小さな状況と、社会全体の大きな状況とを区別して考える必要がある。目の前の問題は、「車椅子ユーザーが、思うように映画が鑑賞できない」ということで、車椅子ユーザーの前には「施設も従業員も十分に対応できない」という障害が横たわっている。ここで発生した軋轢(あつれき)の解決には、施設改修や従業員増強・車椅子を介助する手法の講習受講といった時間と手間が必要になる。そこを、手間もかけずに解決するのが「車椅子ユーザーに映画鑑賞をあきらめてもらう」という方法だ。 事態を拡大せずに穏便に解決する魅力に「あいつは車椅子ユーザーなのにわがままだ」という攻撃的な意識が相まって、「車椅子ユーザーは少数者なのだから、社会の円滑な運営のために我慢すべきだ」という態度になる。 しかし、社会全体としてはそれでいいのか、いったい我々全体にとってどのような社会が住みよい社会なのか、と考えると、まったく別の構図が見えてくる。 住みよい社会とは、いかなるハンディキャップを持とうとも、誰もが健常人と同等の利便性が得られる社会だ。社会から得られるサービスが、心身の状況次第で変化すべきではない。 「それは理想論だ。現実はそうではない」――その通りだ。だから、我々は理想を目指して現実を少しずつであっても変えていくべきなのである。 だって実際、過去数十年の粘り強い努力の結果が今の「バリアフリー」社会なのだから。 これは嫌みでもなんでもない。自分が小学生だった半世紀前、車椅子を使っていると、鉄道の利用はまず無理だった。駅にはエレベーターがなかったし、駅員さんが介助して車椅子ユーザーが列車に乗降する仕組みもなかった。階段を上れない車椅子では、そもそもプラットホームに行き着くことすら難しく、さらにそこから段差やギャップを乗り越えて列車に乗り降りするとなると、複数の人に車椅子ごと持ち上げてもらう以外に手はなかった。 それが40年くらい前から、駅の階段には車椅子用の昇降機が備え付けられるようになり、やがて駅舎の改築に合わせてエレベーターが設置されるようになった。車椅子ユーザーが列車に乗降する際には、駅員がスロープ板を持って待機し、ドアが開くとスロープ板を設置してくれるようになった。 それに歩を合わせるようにして公衆トイレも進歩した。かつて車椅子ユーザーは外出時に使えるトイレがないという不便と戦わねばならなかった。外出前には水分摂取を控えることすら必要だったと聞いている。それが今は、かなりの数の公衆トイレが車椅子ユーザーを意識した設備を備えるようになっている。 往時に比べれば随分と改善が進んだ今でも、車椅子の人が鉄道を利用するのは大変なことだ。健常な人のようにはいかない。 それでも、目指すべき理想は「ハンディキャップがあろうがなかろうが、等しくサービスを受けられる社会」だ。