特攻隊員は、遺される親や女性たちに何を思っていたのか…遺書や日記に書かれた「心の叫び」
生還の見込みのない体当たり兵器に乗り込んだ若者たち。 戦局挽回、国民の士気高揚を目的に「一億総特攻」を打ち出す軍上層部、メディア。国民は特攻、そして特攻隊員をどう見ていたのか。 【写真】 『特攻隊員の現実』では、前線、銃後の人びとの生の声をもとに、特攻を再現する。 ※本記事は一ノ瀬俊也『特攻隊員の現実』から抜粋・編集したものです。
親や女性が心の支え
沖縄戦の特攻隊員たちが心に思い浮かべたのは、両親をはじめ、遺される人たちのことであった。 〈生還の見込みのない体当たり兵器に乗り込んだ特攻隊員たちは、何を思い、亡くなっていったのか〉に出てきた小澤大蔵中尉は、第二四振武隊長として1945年4月29日に出撃戦死するが、同月18日の母宛ての遺書に、 私がいなくなったからとて、別におかしく改まって考えないで下さい。お父さんや兄さんのいる所に行くだけのことですから。又別にゆうれいになって化けもしません。/生きて居た時と同じ気持で私をとりあつかって下さい。其れが只一つのお願いです。私は常にお母さんや皆と一緒に居たいのです。/いや必ず必ずお母さんの胸の中に帰って来ます。(木村栄作編『天と海』) と書いた。母親が嘆き悲しむことを予測し、必ず帰ると約束している。 4月28日、神風特別攻撃隊・第二正統隊員として出撃戦死した海軍少尉・山下久夫(22歳、関西大、第14期飛行予備学生)は4月12日の日記に親への遺書を書き、「御両親の御無理も皆久夫の学資より出たることと存じて、申す言葉も有りませぬ」と述べている(海軍飛行予備学生第十四期生会編『続・あゝ同期の桜』)。これから大いに親孝行をして恩返しをするはずが、できなくなったことを詫びている。 神風特別攻撃隊・神雷部隊第九建武隊員として4月29日に戦死した海軍中尉・中西斎季(27歳、慶大、第13期飛行予備学生)は4月のある日の日記に、「吉田さんより結婚の申込をうく。彼女が我を愛してくれる以上われもまた彼女を愛す。しかれども、わが未来はあまりに短し。つつしんでその申出を断るよりほかになし」と書いた(白鴎遺族会編『増補版 雲ながるる果てに』)。 「吉田さん」は恋人であるが、遺される彼女の将来を思えば、結婚は諦めるしかなかった。 『特攻隊員の現実』の「まえがき」に出てきた特攻隊員・森丘哲四郎が女学生・小林治子のことを日記に書いたのは、45年3月22日のことである。この日、森丘は乗機零戦への爆装準備を完了させ、「神風特攻隊員の名誉と誇のもとに猛訓練に努めん」「願うは愛機の快調なり」と決意を新たにしていた(森丘・伊藤編『神風特別攻撃隊七生隊 森丘少尉』)。 しかし、同じ日の日記には「最近特攻隊の一員となりてより、実に故郷からの便りの来んことを願うようになった。出郷の折は『行きます』と断言して来た自分も、いまは姉上の封書に随喜の涙を流す憐れさだ」ともある。多くの特攻隊員と同じく、森丘もすでに周囲の生者と断絶し、深い孤独の人となっていた。 その孤独は、結局のところ、女学生や故郷の女性たちの作ったマスコットによっても満たされなかった。森丘は沖縄出撃前日の4月5日、基地近くに住んでいた戦友の義妹・島田たつ江に「戦闘機に一人乗るのは寂しいですからね人形と一緒に話すのですよ。沢山マスコットを持っていたのだが、整備員にとられちゃって、たった四つ寂しいな、僕と運命を共にするのは四つかな」と語ったという(島田が森丘の親に送った手紙による)。 森丘にとってのマスコットは「寂しい」死出の旅をともにしてくれる“道づれ”であった。だがそれだけでは埋めきれようもない寂しさが、出撃まぎわの機上での「故郷へ一度帰りたかった」という言葉に繋がったのだろう。 森丘は4月6日、第一七生隊員として沖縄へ出撃したが、奄美大島に不時着し、12、3日ごろ佐世保に上陸して15、6日ごろ出水基地(鹿児島県)に帰投、待機のうえ29日に第五七生隊員となってふたたび鹿屋基地(同)から発進したという(母親の回想)。