「日本とアメリカ軍」の「あまりにいびつ」な関係…日本が直面している世界で唯一の「ヤバすぎる現実」
危機に陥った米軍
1950年6月25日に始まったこの戦争で、日本から出撃していった米軍(朝鮮国連軍)は当初、徹底的に負けるわけです。それはマッカーサーの判断ミスで、北朝鮮が南に攻めてくることなど絶対にないと考えていたため、敵を迎え撃つ準備がまったくできていなかったからでした。 そのため米軍は開戦からわずか1ヵ月余りで、朝鮮半島南端の釜山周辺の一角まで追いつめられてしまう。あやうく対馬海峡にたたき落とされそうな状況にまで陥ってしまったのです。 しかし、それでも米軍は負けなかった。それは対馬海峡の対岸にある日本から、どんどん武器や弾薬や兵士たちが送りこまれていたからで、「兵站が続けば戦争は負けない」という軍事上のセオリーの、まるで教科書のような戦況だったわけです。 そして有名なマッカーサーの仁川上陸作戦(9月15日)もあって、一度、中国国境近くまで押し返したものの、中国軍が参戦したことでまた38度線あたりまで後退させられる。 米軍にとってそれは、「歴史上もっとも困難をきわめた戦争のひとつ」だったのです。
さまざまな戦争支援
そうした状況のなか、連合国軍という名のアメリカ陸軍に占領されていた日本は、さまざまなかたちでこの戦争への協力を求められることになりました。敗戦時にポツダム宣言を受け入れていた日本は、連合国軍最高司令官であるマッカーサーに対して、その要求を拒否する法的権利を持っていなかったからです。 そのため、朝鮮半島への上陸作戦で機雷を除去するための掃海艇の派遣や、米軍基地に配備するための警察予備隊(7万5000人)の創設、さらには米兵や軍事物資の輸送、武器や車両の調達や補修など、まさに国をあげての戦争支援を行ったのです。 おかげで「朝鮮特需」といわれる巨額の経済的利益がもたらされ、まだ復興の途上にあった日本経済を大きく潤すことになりました。 そして、朝鮮戦争の開戦から7ヵ月後(1951年1月)に始まった、日本の独立に向けての日米交渉のなかで、日本は当時、朝鮮戦争に関して行っていた、そうしたさまざまな米軍への軍事支援を、「独立後も変わらず継続します」という条約を結ばされてしまうことになったのです。 それが1951年9月8日、平和条約や旧安保条約と同時に交わされた「吉田・アチソン交換公文」という名の条約です。でもおそらく読者のみなさんは、どなたもそのことをご存じないでしょう。もちろん当時の国民も、その取り決めが持つ本当の意味について、だれひとりわかっていませんでした。