「一人で食べる」「誰かと食べる」どちらか一方を選ばなくてもいい…世界中の多様な食卓から考える、共食と孤食の間にあるもの
世界の食卓の例から孤食について書いてください、と依頼をいただいた。気が進まなくて、ふた月漬けてしまった。この話題は共食推進派と孤食肯定派の主に二つの立場があるが、いずれにしても「べき」論になりがちで、窮屈に感じるのだ。 【写真】日本の家庭料理はハイスペックすぎる…意外に質素な世界の食卓 両親がいて子どもがいて一家そろって夕飯を食べるのが「家族の形」であったのは過去の話。今や日本の世帯の4割弱は単身者(令和2年(2020年)国勢調査より)で、子どものいるいない、共働きかどうか、生活スタイルも様々。これだけ多様になっている社会で、食卓のあり方もひとくくりにしてあるべき姿を語るのは非常に困難だから、この議論からは距離を置くことにしていた。 しかし、考えてみたらそもそも食事のあり方が「共食」「孤食」の二つしか可視化されていないこと自体が、現代社会においてなんとかできることなのではないか。共に食べると一人で食べるの間にある多様な食卓を描くことで、もっと風通しよく、自由に豊かな食卓を作れるのではないか。そう思って書くことにした。 何人で食べるという議論を超えて、生活を満たす食卓を創造する手がかりになれたらうれしい。
南米ペルーのケチュア族の家庭へ
私は世界各地の家庭を訪れ、日々の料理を一緒に料理をさせてもらうことを続けてきた。南米ペルーを訪れた時は、富士山頂くらいの標高に住むケチュア族の農家に滞在した。ケチュア族はアンデス山脈に住む先住民の一つで、高地の標高差を利用した農業技術に長けている人々だ。鮮やかな色の服を着て、女性は年配の方でも長い三つ編みに膝丈スカート、山岳民族らしく身長は低くて、どこか親しみのわく姿だった。 お世話になった家は50代の夫婦二人暮らしで、隣に住む娘夫婦とともに、日々畑仕事や家畜の世話をしていた。私が訪れた6月頭はちょうどじゃがいもや穀類の収穫シーズンでとびきり忙しい時期。朝は日の出前の5時には起きて畑に向かい、日が沈むまで仕事を続ける生活だった。
連携プレーで進む農作業
私も一緒に農作業をしていたのだが、「それ持って」と言われたじゃがいもの袋は重すぎて持ち上がらず、「ロバを見ててね」と言われてもロバは逃げるし、役立たずを痛感しながらそんなことも言っていられないので働いていた。やらなければいけないことは膨大にあり、季節は待ってくれない。夫セレスティーノは妻に向かって「君が豚の餌やりをしている間にぼくがあっちの畑を見てくる」なんて言って二人で連携し、息つく暇もなく仕事を片付けていくのだった。 日が沈んだらようやく、家に入って夕飯の支度だ。妻サントゥサがかまどに火を起こし、米を火にかける。標高が高いので沸点が低く、炊けても芯まではやわらかくならない。そのパリパリのご飯を各人の皿に盛り付け、カリッと揚げ焼きにした目玉焼きと油でふにゃふにゃのフライドポテトを山盛りのせた。立ち上る湯気が、早く食べてくれと誘ってくる。