文楽・吉田玉女が春に「玉男」を襲名 ── 2代目としての決意や師匠の思い出
文楽に「玉男」が帰ってくる。 人形遣いの吉田玉女(61)が今年4月(大阪)、5月(東京)公演で二代目吉田玉男を襲名する。襲名披露演目は師匠、初代玉男の代表作の一つ「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」。「平家物語」「源平盛衰記」の一谷の合戦で熊谷直実が平敦盛を討ち取った物語を題材にした大作で、新・玉男は忠義の心と父親としての思いの間で苦悩する武将・直実を遣う。 「師匠の“玉男型”の中に自分の遣い方を入れて……、そんな気持ちで臨みたい」と玉女は意気込む。 「吉田玉男」は文楽を語る上で欠かせない名跡。初代玉男は人間国宝で文楽人形遣いの最高峰と評された。2006年に亡くなるまで生涯で1136回務めた「曽根崎心中(そねざきしんじゅう)」の徳兵衛や、「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)・丞相名残の段(しょうじょうなごりのだん)」の辛抱立役である菅丞相など、役の深い理解から工夫をこらし性根を描く芸が真髄だった。玉男により心を吹き込まれた人形たちは、笑い、そして泣き、観客を魅了した。たゆまぬ努力と芸で文楽を世界的演劇、無形文化遺産に高めた立役者の一人だった。 その玉男の一番弟子で、師匠亡き後も、侍や武将など時代物の大きな立役を中心に文楽を牽引してきた玉女が、ついに師匠の名を継ぐ。 襲名を前に、2代目としての決意や師匠の思い出などをうかがった。
「玉男」のイメージは
玉女さんに聞く~襲名のこと、玉男師匠のこと。 ──いよいよ4月に大阪で「玉男」襲名ですね。襲名を決心されたのはいつ頃ですか。 2、3年前に簑助師匠から玉男を襲名してはどうかと言われていたんですが、僕としては決心がなかなかつかなかったんです。いろいろ考えて。一番初めは、一昨年の9月に東京で、師匠(玉男)のことも見ていて僕のことも長く応援してくださっている長唄のお師匠さんが、もう継いでも大丈夫やろと言ってくださったことでした。それで、60歳にもなったし母が亡くなったこともあって、大きな節目だということで決心しました。師匠が亡くなられて今年で9年、今はまだお客さんがご存知やけども、10年以上たってしまうと玉男という人がどんな人やったのかわからなくなる。そういう意味でもいいタイミングでした。 ──決心されてからはすんなりと? やはり玉男という名前は大きいですからね、継いでいけるかと不安に思っていたんですが、一度決心した後の一昨年11月くらいに、師匠の次男さんに「継いでよろしいか」とご挨拶にうかがったら、「かまへんよ、もう大丈夫や」と言ってくださって。自分らしく2代目の玉男としてやったらええねんって。それで心が決まって、昨年のお正月に(技芸員の)幹部や劇場に報告しました。そこから話が進んで、2月に発表しました。いろいろと準備をしているところです。 ──玉女さんがなりたい「玉男」のイメージはどんな感じですか。 僕はね、師匠に入門してかれこれ47年(昭和43年に入門)。亡くなるまで40年近く一緒にいました。その間いろいろと手取り足取り教えてもらって、不器用な人間やったんですけど、やる気だけはあったので、師匠にしこまれて足もなんとか人形らしく遣えるようになり、師匠の遣うのを見ながら左を遣って覚えて、今こうして主役をやらせてもらえている。足10年、左15年という長い修業がありますが、長いとは思わへんかった。好きやったんやと思いますね。師匠のことを尊敬して、長いことやってきたからここまでこれたと思います。舞台で遣っていると、師匠の思い出が出てくるんです、目に浮かんでくるんです。たとえば俊寛を遣っていても、ああ、師匠はこうして遣ってたなあ、こういう感じやったなあと。そういうイメージが僕にはたくさんあるんですよ。なるほどなあというのが。今はビデオもあるし、そういうのも手本になるけど、僕は師匠のやっていたことを実際に見れた。そういう師匠の「玉男型」の中に自分の遣い方を入れて……。そういう気持ちで臨みたいなと思っています。