37歳で死去「道長の甥」伊周が遺した“最期の言葉” 道長はライバルである伊周をどう思っていた?
■37歳で死去、伊周の最期の様子 そんな伊周は、花山法皇に向けて矢を放つという不敬事件(矢を射たのは従者)により、996年に太宰府に護送されますが、翌年には都に召還されます。そして、1010年、失意のうちに、37歳で亡くなりました。 『大鏡』には、伊周の最期の様子も記されています。臨終間際になっても、伊周はそこまで苦しんではいなかったようです。 しかし重体になったとき、伊周の家族は、祈祷のために僧侶を呼ぼうとしますが、来られる者がいませんでした。どうしようかと思い、頼ったのが、道長でした。
そして伊周の子・道雅が、使者として道長のもとに派遣されます。それは、人々が寝静まった深夜でありました。 道雅は、道長の邸の前で、咳払いをしたそうです。邸内からは「誰だ」との声が聞こえてきます。道雅は名前を名乗り「このような次第(伊周の重体)で、祈祷を始めたいと思います。しかし、来てくれる僧侶がおりません。僧侶を呼んでいただきたく存じます」と用件を話しました。それを聞いて驚いた道長方は、僧侶を差し出しました。
伊周は、息子や娘(姫君)たちを集めて、このような言葉を遺します。 娘には「このような情けない死に方をするとは。そうと知っていたならば、お前たちこそ、私より先に死ぬべしと、神仏に祈るべきだった。私が死んだら、お前たちが、どのような扱いをされるだろうかと思うと、堪らなくなるのだ。万が一、世間の物笑いになるようならば……。見苦しい振る舞いをお前たちがするならば、この世を去ったとしても、必ず恨もうぞ」と。
■父の伊周に似た、伊周の子・道雅 そして息子には「くれぐれも申しておくぞ。私が亡き後に、見苦しい真似はしてくれるな。名簿を持ち歩いて、権勢家(権威や勢力のある家柄)に面会を求めることはするな。それは、父であるこの私の顔に泥を塗ることだ。世間の人々に、帥殿(伊周)の息子が『あのようなことをするなんて』と言われることはしてくれるな。万一、命を長らえることができたなら、出家せよ。ただ、出家するばかりであるぞ」と厳命したのでした。