いまも脳裏に刻まれる華麗なプレー 鹿島の伝説…ジーコとレオナルドの運命的な結びつき【コラム】
ジーコとレオナルドは鹿島とセレソンでともにエースナンバーを背負ってプレーした
レオナルドは鹿島でのプレーを経て、活躍の場をヨーロッパの強豪クラブであるパリ・サンジェルマン、そしてACミランへと移す。彼はキャリアの最後を鹿島で迎えたいと言っていたが、その言葉は現実とはならなかった。一線を退くように2001年にヨーロッパをあとにすると、次に選んだプレーの場所は日本ではなく母国のブラジルだった。 そして、ブラジルに戻ったレオナルドに、思いがけない幸運が舞い込む。約2年ぶりに代表へと招集されたのだった。当時のブラジルは02年日韓W杯に向けて南米予選を戦っていた。本大会では頂点へと昇り詰めるセレソンだが、予選ではかつてない大苦戦を強いられていた。 レオナルドは2001年8月15日のパラグアイ代表戦のメンバーとして招集される。上昇気流に乗れず、初の予選敗退がチラつく厳しい状況を受けて、ブラジルはチームに勢いをつけるために、急遽、同9日にパナマ代表との親善試合を組む。そして、実戦形式の力試しとなったこのパナマ戦でレオナルドはキャプテンマークを巻いて先発出場を果たしたのだった。 その背番号は「10」。かつてジーコが背負い、自身も全盛期につけていたカナリアの栄光の番号を託され、5-0の大勝に貢献する。だか、大一番となった15日の試合(結果は2-0でブラジルの勝利)では途中出場に留まり、背番号も「15」だった。続く9月5日に行われたアウェーのアルゼンチン代表戦にもメンバー入りを果たしたが、出場する機会がなく、1-2で敗戦。レオナルドがカナリア色のユニホームに袖を通すことは、これ以降はない。 現役引退後のレオナルドは、ヨーロッパで監督やチームのフロントを経験していく。彼がパリ・サンジェルマンでスポーツディレクターを務めていたときの試合に行くと、キックオフ前にピッチの周囲にいたレオナルドは、こちらを日本人だと認識すると、手を振ってきたこともある。日本とのかかわりを大切にしているエピソードと言えるのではないだろうか。 鹿島とセレソンで、ともにエースナンバーを背負ってプレーしたジーコとレオナルド。鹿島サポーターが2人の日本でのプレーを見たのは、ライブでの体験や映像メディアの視聴と形はさまざまだろう。だが、ジーコとレオナルドの華麗なプレーは時代を経ても色褪せることなく、サポーターたちの心のなかに、いつまでも鮮明に刻まれていくことだろう。 [著者プロフィール] 徳原隆元(とくはら・たかもと)/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。80年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。
徳原隆元 / Takamoto Tokuhara