【89歳の美容家・小林照子さんの人生、そして贈る言葉⑤】他人の人生をうらやみ、嫉妬する顔は本当に醜い
89歳にして美容研究家であり、ふたつの会社の経営者として現役で活躍する小林照子さんの人生を巡る「言葉」の連載「89歳の美容家・小林照子さんの人生、そして贈る言葉」。今回、お話しいただいたのは、「負の感情」についてだ。 養父母とともに山形に疎開し、終戦後もそのまま山形で過ごすことになった照子さん。都会とは違う田舎の暮らしにもすぐに慣れたものの、10歳のときに養母が脊椎カリエスという、当時治療が難しかった病にかかり、その後、寝たきりとなった。養父は養母の介護に専念し、一家の生活を支えるのは照子さんの仕事になっていった。
「こうなりたい」自分を捨てないで!
「戦況が悪化して、東京が大空襲に見舞われる約1カ月前の1945年2月、私が9歳のときに養父母とともに山形に疎開しました。その年の8月に終戦を迎えますが、私たちはそのまま山形にとどまりました。 戦後の生活は決して楽ではありませんでしたが、わずかな所持金と着物や帯などを食料に換えたり、農作業を手伝うなどしてなんとか暮らしていました。 小学生の頃の私は歌うことが大好きで、まだ東京にいた小学2年生のとき、クラス代表としてコーラスのソロに選ばれたこともあります。自分の声が気に入っていて、山形の学校でも休み時間や登下校のときによく大きな声で歌っていました。標準語が話せる私は、学芸会の主役に抜擢されるなどして、人から脚光を浴びることの快感を得るようになりました。 そんな山形の生活にも慣れてきた頃、養母である八重子が脊椎カリエスになり寝たきりになります。病院に入院させるお金がなかったので、自宅で療養していました。 脊椎カリエスは結核菌が脊椎へ感染し、背骨が痛む治療困難な病気です。当時は伝染するといわれていたので、私にうつさないようにと養母の介護は養父が引き受け、私は食事の支度などの家事と農家の手伝いをして食材の調達を一手に担いました」 中学の頃から農村の青年たちと演劇サークルを作り、脚本を読んだり、舞台装置や衣装など、仲間とひとつのものを作る楽しさにのめり込んでいった照子さん。そしてその演劇サークルは自分の町や隣町でも公演を頼まれるようになり、山形を離れる20歳まで続いたそう。 「それぞれが得意分野を生かして、舞台の小道具や衣装を作ったり、照明や音響を考えたりしました。次第に私は舞台で演技をするほうではなく、裏方、特にどうやったらおじいさんやおばあさんのように見せられるか? 病気でやつれた感じが出せるか? という役作りのためのメイクアップに興味を持つようになりました。 舞台に夢中になったのは、今考えると、歌舞伎の芸養子になる予定だった実父の素質を受け継いでいたのでしょうか? 父は人前で話をするのが得意でしたし、私が子どもの頃、よく講談に連れて行ってもらったことも影響しているかもしれません。 私はいつしか、『東京に行って舞台のメイクアップの勉強をしたい!』という夢を抱くようになりました。しかし、家は貧乏で親を置いて東京に出る余裕などありません。それをよくわかっていました。 この頃は日々の生活に精一杯で、自分の未来を考える余裕などありませんでした。現代においても、それぞれの年代ごと、その人の環境ごとに試練は尽きず、先が読めなくて悩んでいる人が多いことでしょう。 でもね、そんなときこそ、自分の直感を信じて、『こうなりたい』『こんな未来をつくりたい』というビジョンを強く持ってほしいのです。そして、それに向かって今できる一歩を踏み出してください。 だって、私がこのときに抱いたメイクアップへの夢は、後に実現することになるのですから。どうぞ、なりたい自分を捨てないでください。理想の未来を描くことに、年齢は関係ありません」