中年男が女弟子の蒲団を嗅いで失恋の涙…ほぼ実話だった田山花袋の告白小説、モデル女性のその後にも影響した嫉妬心
嫉妬は結婚後も続いた?
未婚の妊娠が発覚し、美知代の父・岡田胖十郎は、怒り心頭に発して娘を勘当した。ここで花袋は、なお下心があったのかどうか、それとも「師」としての道徳的責任を感じたのかどうか、なぜか2人に救いの手を差し伸べた。美知代を養女として迎えた上で、“恋敵”の静雄との結婚について、仲介の労をとったのである。 永代姓となった美知代は、長女を東京で無事出産。だが、このあたりから、花袋への不満を公にするようになった。「スバル」明治43(1910)年9月号に載った、美知代による『蒲団』への“意趣返し”といわれる短編小説「ある女の手紙」には、こうある。 「佐伯は私とああした関係で、そのためあの通りK先生から憎まれて、先生が自分から私の養父になつて、云はばまあ婿と云つた関係の時代でさへ、終に佐伯に対する感情を解かうとはなさらなかつた――」 「佐伯」とは静雄、「K先生」とは花袋であろう。美知代は当然ながら、告白小説のモデルにされたこと自体、よくは思っていなかった。その上、2人が結婚した後も、静雄に対して何かと辛く当たっているとして、非難しているのだ。
続編といわれる短編小説「縁」にも
花袋はめげずに、『蒲団』の続編といわれる短編小説『縁』にも、美知代がモデルとされる「敏子」という女を登場させている。ただ、美知代の心を掴むことは、相変わらずできなかった。 永代夫妻の夫婦生活はといえば、これも順風満帆とはいかない。花袋との確執に加え、美知代への不信感も募り、今度は静雄が、酒に溺れるようになった。明治43(1910)年には長男も生まれたのだが、2人とも、もともと激しい性格であるだけに、すれ違うことが多くなった。 大正15(1926)年、2人はついに離婚。美知代は、親類のつてを頼って、長男を連れて渡米した。妻に去られた格好の静雄は、「毎夕新聞」の記者になった後、新聞研究所を設立するなどして、ジャーナリズムの世界で名を成すことになる。