中年男が女弟子の蒲団を嗅いで失恋の涙…ほぼ実話だった田山花袋の告白小説、モデル女性のその後にも影響した嫉妬心
「モデル」たちはいい迷惑
いざ、芳子が自分の元から去ってみると、時雄はえも言われぬ空虚感に包まれた。そして、あろうことか、芳子が竹中邸に置いていった蒲団と夜着をやおら引っ張り出し、その残り香を懐かしげにくんくん嗅ぐのだった。なんとも女々しい「男の未練」に満ちた結末は、あまりにも有名である。 「性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた」(『蒲団』) むき出しになった「中年男の助平心」。当時としては大胆で露骨な愛欲の描写が世間を大いに騒がせたわけだけれども、『蒲団』の“価値”を高めたのは、何よりも花袋の実体験に基づいた「告白」だった点にある。「自己の生活体験をありのままに書く」という、後の「私小説」に繋がる日本の自然主義文学の嚆矢だったのだ。 実際、島村抱月は「自意識的な現代性格の見本を正視するに堪へざるまで赤裸々に公衆に示した。之れが此の作の生命でありまた価値である」と評価。花袋と同じ尾崎紅葉の門下生だった小栗風葉も「自然派小説勃興してからこの方始めての代表作」と称えている。 『蒲団』の登場人物のモデルは、ほどなくして特定された。時雄は花袋であり、芳子は岡田美知代、秀夫が永代静雄という人物である。内容もほぼ実話で、花袋と美知代、そして静雄は、事実上の三角関係だった。これに、時雄の「細君」、つまりは花袋の妻・利佐子が加わり、男女関係は複雑な様相を呈していたのだ。
花袋に深い敬意を抱いていたが
花袋は明治4年、現在の群馬県に生まれた。家は貧しく、苦学を重ねた末に、十代で文学を目指して上京し、小説「少女病」を発表。雑誌社に勤めながら、当時、続々と日本に紹介されていた西洋文学の影響を受けた自然主義文学の作品を、次々と世に送り出していった。この間、28歳で利佐子と結婚している。 美知代は明治18(1885)年、広島県の田舎町の豪商に生まれた。明治37(1904)年に、通っていた神戸女学院を退学して上京。花袋の弟子となり、女子英学塾(現津田塾大)に通った。その1年半の後、広島に一時帰省した帰途、同志社の苦学生で、同様に文学を志していた静雄と知り合い、恋に落ちた。 美知代は、花袋に深い敬意を抱いていたものの、恋愛感情はなかった。静雄についても、深い関係にはなったにせよ、小説と同じように、花袋によって別れさせられ、明治39(1906)年には帰郷したのだった。 『蒲団』で描かれたのはここまでだが、実人生では続きがある。花袋も静雄も、いったんは美知代を諦めざるを得なかった。だが、『蒲団』発表から1年余り後のこと、美知代は再び上京してきた。しかも、別れたはずの静雄との交際を復活させ、妊娠までしてしまったのだ。