「教員不足」解消のための緊急方策は、教育に何をもたらすか
◇教員養成を経ずとも教員になれる「特別免許状」制度の懸念点 特別免許状の授与数は条件の緩和にも関わらず近年まで増えなかったのが、昨今の教員不足の中で増え始め、文科省が“切り札”のような形でますます推奨しており、急増することが予想されます。 しかし私には、この流れによって「学校の先生は大学で養成を受けて免許をとった人」という常識的とも思われてきた前提が掘り崩されようとしていると感じられます。 とくに「大学における教員養成」に関心を持っている私からすると、教員不足そのものの問題状況と同時に、その解消のために(やむにやまれず)導入される、大学での養成をスキップする方策が、長期的に教員という職業集団の「質」に対してどのような影響をもつのかが気になります。 ひとつは、実際の児童・生徒対応についてです。もちろん、教育学や心理学を学べば教員として不足がないというわけではありませんが、一定以上の学術的知見が積み上げられている大学の教員養成課程を経ていないことのマイナス面は決して小さくないと思います。文科省自身も「特別免許状[…]をもって採用される者については、一般的に教職に関する知識・ 技能に通じていないことが想定される」としています(文部科学省総合教育政策局教育人材政策課「教師不足に対応するための教員免許状等に係る留意事項について(依頼)」2022年4月20日付) 実際に、会社で語学力が必要な仕事をされてきた方が英語の特別免許状を取得して教員になったものの、歳の離れた未成年との間に生徒-教員という関係をうまく構築することができず、結局は、英語の授業も含めて困難が生じたというケースも耳にしたことがあります。 付言しておきますが、これは特別免許状を取られた方々に教員としての資質がないということではありません。が、少なくとも現状の特別免許状制度は教科の「スペシャリスト」と認定されれば教員になれる構造になっています。「スペシャリスト」としたのは、大学で免許を取る場合には、その科目の学問領域をおおまかに網羅する「一般的包括的内容」を含む科目で教科の基礎的内容を学ぶことになっていることとの対比です。教科の特定の領域についての「スペシャリスト」でよいのか、また、教育学・心理学を学ばないことに問題点はないのかという議論を喚起したいのです。 たとえば体育の指導を考えてみますと、どれだけ優れたアスリートとしての能力・実績があろうとも、それは多様な子どもたちに体育教師として多種の競技について指導する力、その子どもの発達段階でやっても大丈夫なのか将来も含めた安全性が考慮された競技指導になっているのかといったことは、やはり体育学や体育教育学の基礎的知識を広くもったうえで常に学んでいかないと自然にできるものではないと思います。 もちろん、このように言うことはまた、大学で養成されていればよしということではなく、ひるがえって大学での教員養成の実態に見直しを迫るものであります。