〝安楽死〟は家族のため―― 「死にたい」娘のエゴ、「生きてほしい」親のエゴ 涙ながらに口に入れた致死薬
「死にたい」娘のエゴ 「生きてほしい」親のエゴ
この頃から、安楽死の選択を考え、家族にも伝えるようになった。CIDPは投薬を続ければすぐに命に関わる病気ではないが、終わりが見えないことが何よりも辛かったという。 家族全員が安楽死に強く反対した。特に両親は「一生懸命育ててきたかけがえのない存在。どうしても死んでほしくない」と懇願した。 だが、くらんけさんにとっては、そんな大切な家族だからこそ、「両親や2人の姉に介護させる一生なんて、絶対に嫌だ」と譲らない。 最終的には両親も「親のために生きてくれとまでは言えない。賛成はできないが、自分たちのエゴで反対もできない」と折れてくれた。 くらんけさんは、海外で安楽死を認めてくれるスイスの団体に申請し、2019年10月に許可が下りた。「これで全てが終わる」と解放感に包まれる一方で、家族への一抹の不安を心の奥底にしまい込んだ。 「私がいなくなった後、この両親はちゃんと生きていけるだろうか」
沈んだ表情の父親 泣き崩れた母親
新型コロナウイルスの流行に伴う渡航制限が緩和された2021年8月、くらんけさんは父親に伴われて、スイスのチューリッヒ空港に到着した。私との2年ぶりの再会に笑顔を見せるくらんけさんに対し、父親は終始、沈んだ表情のまま私の前で言葉を発することはなかった。 母親は「自分の娘を看取ることなんてできない」として、同行を拒否して自宅にとどまった。出発の日、2人の姉も家で見送ってくれたが、傍らでは母親が泣き崩れていたという。 くらんけさんは、スイスまでの付き添い人を雇うことも検討していた。だが、父親が「他人に娘を連れていかれるくらいならば、自分で最期を見届けたい」として、同行を決断した。
安楽死が決定 震えて泣く父親、家族に心配が募る
スイスに到着した翌日、安楽死を認める最終審査の結果が出ると、それまで平静を保とうとしていた父親に変化が生じた。深夜、突然、震え出して、娘に隠れて泣いていた。 「発狂しそう」と呟き、寝ている娘に「手をつないでほしい」と頼むこともあったという。父親の傍らでは、くらんけさんもほとんど眠ることができなかった。 どんなに高額な医療でも、娘の回復を信じて治療の選択をし、働き続けた父親。娘を叱咤激励し、テニスボール大の円形脱毛症を作りながらも笑顔を絶やさずリハビリをサポートしてくれた母親。 「自分の命は、自分だけのものではない」。そう感じているくらんけさんは、家族の行く末を心配して心が揺れていた。 「こんなに仲の良い家族を残して、彼女は本当に安楽死を遂げることはできるのだろうか」。私にはそんな疑問が徐々に強くなってきていた。 記者が他人の生死に口を挟む資格などない。それでも、私は安楽死予定日の前日、意を決してこう切り出した。 「もう1度、日本に戻って、考え直してみることはできないかな」 しかし、くらんけさんは、少しあきれたような表情で私をたしなめた。