NHKとテレ朝の聴取で注目、昔からあったテレビへの“圧力”と“介入”
NHKやテレビ朝日に対する自民党の聴取などをきっかけに、テレビ報道への「圧力」に注目が集まっています。今回の聴取を「圧力」「介入」と見るかどうかは見解が分かれるところですが、実はこのような事態は今に始まったことではありません。歴史を紐解くと、同じような問題はテレビの黎明期の1960年代から頻繁に起きていたことがわかります。 大まかに分類すると、「圧力」「介入」を行うのは、時の政権や政党といった「政治」、番組を提供する「スポンサー」、労働組合や市民グループといった「団体」に区分できそうです。まず、「政治」から見ていきましょう。
1965年5月、日本テレビは「ノンフィクション劇場」シリーズの中で、「ベトナム海兵大隊戦記(第1部)」を放映しました。当時、米国は北ベトナムへの爆撃を始め、ベトナム戦争が本格化したばかりです。その最中、日本テレビの取材班は米国の支援を受けた南ベトナム政府軍を取材。兵隊が敵の少年兵の生首を下げて戻ってくるシーンも放映しました。反響は凄まじかったようで、放送直後から日本テレビの電話は鳴り止まず、新聞各紙にも投書が続々。その9割以上は「戦争の醜さがよく分かった」などの内容だったそうです。 日本政府は当時、米のベトナム戦争を支持しており、番組放映の翌日、橋本登美三郎官房長官(自民党)は日テレ社長に「あんな残酷なものを放送するのはひどい」と電話しています。米大使館や南ベトナム側からも抗議。結局、日テレは「自主的判断」として、編集済みだった第2部、第3部の放映を中止しました。 ベトナム戦争報道をめぐっては、米軍の爆撃で破壊された病院を報道した日テレの別番組に対する米政府の抗議(1965年10月)なども発生。他のテレビ局も抗議や「自主的判断」の中で番組のカットなどを行いました。 テレビではありませんが、毎日新聞外信部長の大森実氏は西側記者として初めて北ベトナムに入り、連載記事で爆撃下の模様を紙面で伝えたところ、米大使から名指しで非難されました。それがきっかけで、大森氏は退社を余儀なくされています。 こうした問題が噴出していた1964年の10月には自民党広報委員会が新聞と放送の局長・部長クラスと「懇談会」を開き、米軍関係の報道は「慎重にやってほしい」と要請した上、“好ましくない人物”として1000人近い作家や学者、音楽家らの名簿を渡したとされています。こうした政権与党とマスコミ幹部との懇談は、このころから半ば定期的に開かれるようになっています。