「表現の不自由展」問題で「対立」激化 愛知県知事と名古屋市長の関係はもはや修復不可能?
「あいちトリエンナーレ」の展示をめぐる波紋は収まらず、今も日本中で表現の自由・不自由が論じられているようです。それは主催者側の狙い通りだった面もあるでしょうが、地元ではテロ予告のようなメールで夏休み中の子どもたちの活動が制限されるなど、実害を被っている面もあります。 もう一つ、今後の影響を考えると深刻なのは、愛知県の大村秀章知事と名古屋市の河村たかし市長の対立が修復不可能と言えそうなところまで進んでしまったことです。今回の騒動の広がりを読み解く上でも、2氏の関係や立場をあらためて整理してみましょう。
自己矛盾している河村市長の言動
「『公衆に険悪の情を催させる』ものとして、公共の場所に相応しくない作品」「その主題自体が甚だ礼を失する遺憾なもの」――。 今回の企画展「表現の不自由展・その後」で展示されたいわゆる少女像や天皇の肖像画を燃やす映像作品などについて、河村市長はこんな自身の見解をまとめた声明文を記者会見で配布したり、市のホームページに掲載したりしています。 開幕直後にトリエンナーレ実行委員会の会長である大村知事あてに出した抗議文を、さらに補強するような内容で、「上記のごとき重大な問題を含むものが散見されていたにも関わらず、本件事業の会長である大村知事が、その一存で、本件事情に係る企画を主宰・独断専行・推進したことに対して、私、名古屋市長河村たかしは、『会長代行』として、遺憾の意を表す」などと、知事への抗議もいっそう強い調子になっています。 声明文には、今回は表現のために必要となる経費を公金から支出する「便宜供与」が不適切であるとして中止を求めるものであり、憲法が禁止する検閲とは「全く関係ございません」とも書かれています。これに関しては、既に報道で複数の弁護士が最高裁判例などに照らして、確かに事前の検閲とまでは言えないと述べていますし、今回の河村市長の主張も弁護士の確認を得ていると思われます。 しかし、法律を脇において、トップの動きとしてはどうなのでしょうか。 河村市長の言動は一定の支持を得ているようですが、反発や不快感を示す市民も少なくありません。最初の抗議文にあった「日本国民の心を踏みにじる」といった表現も主観的、抽象的です。そうした見方の分かれる主張を市長の立場で公式に行い、公金(国際展とは比べものにならない額ではあるでしょうが)を使って文書の配布や掲載をするのは、自己矛盾していると言えます。 市長ではなくトリエンナーレ実行委員会の「会長代行」との立場も強調していますが、市によると河村市長は少なくともここ3年間、最上位の会合である「運営会議」に出席したことはないそうです。会長代行にふさわしい関わり方や関心を持っていたか、そもそも全体のコンセプトと企画展の位置付けをしっかり理解していたかは疑問だと指摘せざるを得ないでしょう。