1945年4月16日。忘れもしない父の命日…寺の帰りに空襲警報が鳴り響いた。「記録なき空襲」…数少ない生き証人は、その日を鮮明に覚えている
鹿児島県屋久島町一湊で、太平洋戦争時の空襲被害の掘り起こしが進められている。地元の願船寺が保管する「過去帳」に被害者の名前があったのがきっかけ。住職が中心となって体験者の証言を集め、旧上屋久町の郷土誌にも載っていない戦時の悲劇の全貌を探っている。 【写真】〈関連〉米軍機が撮影した一湊の空襲写真。1945年4月24日とみられる(出典National Archives、眞邉一近特任教授提供)
安藤ツタエさん(93)は、数少ない空襲体験者の一人だ。「亡くなった人たちとつながりがあり、思い出すと涙が出る」と当時を振り返った。 父を早くに亡くし、戦時中は母、二つ下の妹と3人暮らし。住民の多くが近くの山腹に疎開小屋を建てて暮らす中、「うちは男手がなく、集落に残って生活していた」と話す。 4月16日の空襲が記憶に残る。父の命日で、願船寺からの帰りに空襲警報が鳴り響いた。米軍機1機が集落上空を旋回した後、山手から急降下。「バリバリッという音が響き、近くの川に飛び込んで上流の方に逃げた」という。3人とも無事だった。 その後も空襲が続いたため、一家は4月下旬に母の実家があった永田集落に避難。「母は『死ぬならきょうだい一緒に』と考えていた。永田に向かう途中、一湊方向の空が真っ赤に燃えていたことも覚えている」 今年4月に願船寺で開かれた慰霊祭にも出席した。「供養になるからやってもらってよかった。戦争は悲しいことばかり」と涙ながらに訴えた。
南日本新聞 | 鹿児島
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