間違った命令に従った場合は・・・戦犯裁判で抗弁にならなかった日本の認識~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#45
従わなければ抗命罪で処罰
要約すると、海軍では部下が意見を述べることはできるようだが、それは極めて稀なことであり、やはり命令は絶対である。そして、 (h)戦時中戦地にあって、間違った命令か否かに拘わらず上官の命令に従わなかった場合の罰は何か、については 命令が不法な場合はこれに従わなくても処罰されない その他の場合は海軍刑法抗命罪として処罰される となっている。 〈写真:石垣島事件の法廷 後列左から三人目が藤中松雄(米国立公文書館所蔵)〉
国際法について無知だった兵士たち
ジュネーブ条約に批准せず準用していた日本は、戦犯裁判では批准していたのと同等に裁かれた。 石垣島事件で弁護人を務めた金井重夫弁護士が「石垣島事件の判決関する意見」で指摘しているように、被告たちは「国際法に関する知識は持っていなかった。敵軍の構成員を殺害することについて、戦闘中は合法的であるが、生け捕りした後は不法であると区別して考えるに、彼らは余りに無知であった。士官でさえ、即成教育を受けた若年者は俘虜の処理について、何らの教育も受けていなかった事は、彼らの証言する通りである」という状況だった。 被告たちにしてみれば、海軍の「不法な命令を不法と知らず、正当なものと信じてこれに従った場合は処罰されない」という規定そのものにあたるケースであり、弁護団はこれを提出して、判決に反映させたいと思ったはずだ。 〈写真:石垣島事件の法廷 傍聴席に座る被告たち(米国立公文書館所蔵)〉
審判規則では「抗弁を構成するものではない」
では、米軍は「命令に従った」ということを、どのように扱ったのか。 41人に絞首刑が宣告され、二度の減刑の結果、減刑されなかった藤中松雄ら7人は死刑が確定し、1950年4月7日に執行されたが、減刑後も釈放されずにスガモプリズンに囚われたままになっている14人の赦免を勧告する文書があった。 国立公文書館の所蔵資料で、日付は入っていないが、この前に綴じてあった文書が1955年のものだったので、その頃のものだと思われる。 戦犯裁判の経過を記した文中、このように書いてあった。 〈写真:赦免勧告文書(国立公文書館所蔵)〉 <「石垣島事件関係者赦免勧告総括的理由」より> 今回赦免勧告を行う十四名について、格別に慎重審理するに、 (A)判決は事実誤認によって量刑過重なものが多い (B)下記理由によって情状は一層酌量されて然るべきに拘わらず、それが行われないで量刑加重となっている (a)判示行為は、いずれも上官の命令による行為である。戦争犯罪被告審判規則によれば、上官の命令による行為は「以て抗弁を構成せしむるものに非ざるも、委員会は正義の要求する処に鑑み、刑罰の軽減を考慮する事あるべし」と規定されているけれども、日本国の軍律においては上官の命令は絶対であって、これを拒めば海軍刑法所定の抗命罪に問われ、敵前の場合は死刑、無期もしくは十年以上の禁固という重罰を受けねばならないものであって、この点において、日本の軍律からすれば上官の命令による行為は違法性を阻却され、その行為の結果に対する責任はすべて命令者が負うべきものとなっていたのである。 日本の軍隊では「命令の実行者は罪に問わない」としていても、米軍にとっては「命令に従った」ということは量刑が軽減される要素ではあっても、「抗弁にならない」ことだったー。 (エピソード46に続く) *本エピソードは第45話です。