センバツ 大分舞鶴 創部71年目の悲願達成 OBも大舞台の活躍期待 /大分
第94回選抜高校野球大会(毎日新聞社、日本高校野球連盟主催)で、大分舞鶴は21世紀枠に選ばれ、初の甲子園出場を決めた。石コロだらけのグラウンドや部員が集まらずに他部から助っ人を集めて野球をしていたかつてのOBたちは、創部71年目の悲願達成に喜び、大舞台での後輩たちの活躍を心待ちにしている。【辻本知大】 ◇舞鶴魂で初戦突破して 2期生・中尾正生さん 「グラウンドには大小の石が転がり、つまずいてケガをしそうになったこともありましたね」。そう語るのは野球部の2期生の中尾正生さん(85)だ。 学校が創立した翌年の1952年に入学した。当時、大分市今津留にできたばかりのグラウンドは石が混じり、ボコボコだった。そのため、練習時間の半分はグラウンド整備に費やした。「自分たちが使うのはもちろん、後輩のために良い環境を作りたい。その一心だった」 野球道具をそろえるのにも苦労した。バットやヘルメットなどの道具は自分たちで用意した。ボールも十分にはなく、糸がほつれて破けた物を持ち帰り、母親に縫ってもらった。 ユニホームは学校から支給されたが、十分な予備もなく大切に使った。ズボンは泥で汚れた跡が残り、穴が開いた所はつぎはぎをした。「とにかく大変でした」 物も少なく、苦しいことが多かったが、当時の指導者から「頑張ったら甲子園に行けるよ」と励まされ、一丸となって、練習に明け暮れた。3年時にはそのかいもあって夏の県大会のベスト4まで勝ち進んだ。 中尾さんは「大舞台に立つ後輩の姿が待ち遠しい。甲子園では舞鶴魂で初戦突破してほしい」と語った。 ◇全国の卒業生に雄姿を OB会長・柏井幸憲さん 「部員を集めるのに苦労しましたよ」。OB会長の柏井幸憲さん(65)は振り返る。柏井さんが球児だった48年前、夏の県大会が終わり、3年生が引退すると、残った部員は1、2年生でわずか8人だった。進学校ゆえに教員から「お前は勉強に集中しろ」と言われて、部活をやめる仲間もいた。 そんな状況で、校内の野球経験者に頼み込むなど、他の部から助っ人を集めてようやく試合ができた。部員は限られているため、打撃練習やシートノックなど満足な練習もできなかった。 練習グラウンドは、全国の強豪として知られるラグビー部と共用で、ラグビー部員に打球が当たらないように気を使った。柏井さんが3年の時、ラグビー部は全国制覇した。「ラグビー部員にはおめでとうと言ったが内心は悔しかった」 しかし、自分たちの果たせなかった夢を後輩たちが決めてくれた。柏井さんは「大分舞鶴らしいチームワークの良さで粘り強く戦い、全国の卒業生にその雄姿をみせてほしい」と力を込めた。