「SNSに毒された人類」は今こそ「虫と花」の関係に学ぶべきだと考える「本質的な理由」
SNS上での承認を求め、タイムラインに流れる「空気」を読み、不確かな情報に踊らされて対立や分断を深めていくーー。私たちはもう、SNS上の「相互承認ゲーム」から逃れられないのでしょうか。 【写真】「SNSに毒された人類」は今こそ「虫と花」の関係に学ぶべきだと考える理由 評論家の宇野常寛氏が、混迷を深める情報社会の問題点を分析し、「プラットフォーム資本主義と人間の関係」を問い直すところから「新しい社会像」を考えます。 ※本記事は、12月11日発売の宇野常寛『庭の話』から抜粋・編集したものです。
虫と花
かつて真木悠介=見田宗介はこう述べた。「進化史上最もめざましい成功をおさめた種間関係は、昆虫と顕花植物の「共進化」である」と。「クローバーの芳香に引き寄せられるハナバチはその身体を「操作される」、他種の(※原文傍点)生殖のサイクルの内に組み込まれている。しかしハナバチはそのことによって自身もまた生存と生殖の機会を増大している」のであり、このとき「ハナバチは誘惑されてあることに歓びを感じ」ているはずだ、と。 ある種の植物は、生殖のために昆虫などの自分たちとは異なる種の生物を誘惑する。その異種を誘惑するために発達した器官が「花」だ。花とは、同種の(私たちの場合は人間間の)コミュニケーションの外部に開かれた回路なのだ。 真木はリチャード・ドーキンスの利己的遺伝子論に、人間を含む動物の利他の根拠を求める。広く知られているように、ドーキンスは生物の個体を遺伝子の一時的な「乗り物」として考える。個体のために遺伝子があるのではなく、遺伝子のために個体があり、そのために、生物には自己遺伝子の存続と同じように、自己のものと近い遺伝子の存続に適した行動を選択するようにプログラムされている、と考える。 アリやミツバチのワーカーたちがみずからの子孫を残すことなく姉妹の子孫を残すために行動するのは、個体にとっては利他的な行為だが遺伝子にとっては利己的な行為である、と。これによって、遺伝子の存続というゲームにおける合理的なプレイとしての利他という現象を説明することが可能になる。 そのために生物は個体にとっての利他的な行為──それは実のところ遺伝子にとっての利己的な行為なのだが──に快楽を覚える本能をもつのだ。 このとき遺伝子はその一時的な乗り物である個体の同種だけではなく、異種にも利他的に働きかけて存続を試みることがある。真木によれば虫と花の共進化は、現時点におけるそのひとつの到達点だ。 それは「個体にとっての利他」によってもたらされる「遺伝子にとっての利己」の快楽が、種を超えたアプローチによって最大化されたきわめて高度な進化なのだ。 そして、認知の能力を発達させた人間という動物はその高度な進化のもつ豊かさを理解することができる。人間がこの「花」という回路──同種に対するフェロモン的(性的)なアプローチに、異種に対する(季節的)アプローチが加えられた高度なもの──を、美という概念の根底に置いてきたのはそのためだ、と真木は考えるのだ。 利己的な遺伝子はときに個体に対して利他的な行為を要求し、個体はその利他的な行為に快楽を覚える。この快楽とは言い換えれば遺伝子の要求に従って自己という個体を解体することで得られる快楽だ。 そして人間はみずからが個体であることを認知できる能力を保つために、みずからが淫している快楽が自己という個体の解体によって得られていることを理解することができる。 ときに他者によって「される」ことが、つまり自己という領域が侵されることが強い快楽をもたらすことを理解することができる。人間とは自己の保存が快楽をもたらすように自己の解体もまた快楽をもたらすことを、そしてこのふたつの本能の組みあわせ(「花」的なアプローチ)がより強い快楽をもたらすことを覚えた動物にほかならないのだ。 真木は、ここに文化とその多様化の根拠を見出す。芸術への、宗教への欲望は言い換えれば他者からの「花」的なコミュニケーションの産物なのだ。 真木によれば人間は、特定の目的(遺伝子の一時的な乗り物となること)をプログラミングされた「エージェント的な主体」であると同時に、自我に目覚め、そのプログラムを相対化し、行動の目的を自己決定できる「テレオノミー的な主体」でもある。そのために自己解体と自己保存というふたつの矛盾する欲求を同時に抱いているのだ。 自己保存の欲求に駆動された、同種への性的なアプローチのみが存在するとき、その場に発生するコミュニケーションは単純な交配にとどまっていく。そこに自己解体の欲求に基づいた異種へのアプローチが加わったときはじめて、そこに多様な文化は「花」として咲くことになるのだ。