「SNSに毒された人類」は今こそ「虫と花」の関係に学ぶべきだと考える「本質的な理由」
忘れられた「花」的コミュニケーション
真木の詩的で、ロマンチックな語り口をいったん横に置いて一連の議論を眺めたとき、ここで述べられている「花」的なコミュニケーションに、プラットフォームを内破していくための大きな手がかりがあることに気づく。 そう、今日の人類は、「花」的なコミュニケーションのことを忘れている。 いま、人類は情報技術に支援されて人間間の相互評価のゲームに中毒的に埋没し、人間外の事物とコミュニケーションすることを忘れてしまっているのではないか。 これまでとは比較にならないほど速く、低廉にアクセスできるようになった同種とのコミュニケーションに埋没し、人間外の事物とのコミュニケーションのことを、置き去りにしはじめているのではないか。 自己が何かを「する」、承認を獲得し自分が何者「である」かを確認「する」、ことでの自己保存の快楽の中毒になり、事物に心身を侵「される」快楽を、自己解体の快楽を、そして自己解体を経由することで初めて実現する自己保存の快楽を忘れてはいないか。 たとえば2020年以降多くの人類が、ウイルスという人間「ではない」ものの脅威にさらされたとき、それを直視することから逃げた。多くの人びとが、新型コロナウイルスが未知であることを受け入れられなかった。 世界にはまだ、わからないことがあることを受け入れることができなかった。ある人たちはそれはただの風邪と変わらない、「大したことのない」感染症だと述べた。こうした言葉は、それが未知のものであることに怯える人びとの不安を埋めてくれた(ドナルド・トランプはこの効果を利用し、意図的にデマを拡散し、この種の人びとの支持を集めた)。 また、ある人たちは急造された新型コロナウイルスのワクチンは、ビル・ゲイツが密かに指揮した人口削減を目的とした毒物であると主張した。このような陰謀論は、そもそも今日の情報の錯綜そのものに耐えられない人たちの精神を安定させる役割を果たした。 そして、人びとのこうした未知の事物に対するアレルギー反応が、情報を、社会を大きく混乱させ、パンデミックそのものを長期化させていった。 あのパンデミックは、人間間の相互評価のゲームに逃避し、人間外の事物から目を背けた人びとの生んだ情報の混乱と誤情報の拡散(インフォデミック)によって強く下支えされていたのだ。 あのころ人間たちは新型コロナウイルスという未知の存在に怯え、既知の存在とのコミュニケーションに埋没していた。ウイルスという人間外の存在との、長い時間をかけたコミュニケーションのもたらす不安に耐えられず、それから逃れるために情報技術によって支援された人間同士の拙速なコミュニケーションに閉じこもった。 この疫病から暮らしを守るために必要な、ウイルスとの感染抑制のゲームではなく、人間間の相互評価のゲームをプレイしていた。そしてその結果として多くの人が、コロナ・ショックを前にしたとき、それを口実にそれ以前から遂げようとしていた野心を追求し、それ以前から疎ましく思っていた対象にツバを吐いたのだ。 しかし私たちはウイルスによって絶たれた人間同士のつながりを回復すること(相互評価のゲームで承認を交換すること)ではなく、人間以外のもの(ウイルス)と正面から対峙することで危機に耐えられる社会を獲得するべきだったのではないか。この知恵を得たときに、人間同士のつながりもまたより強固で、建設的なものとして蘇るはずだ。 そしていま、ほんとうに必要なことは人間間の閉じたネットワークのなかで、相互評価のゲームをプレイすることではない。むしろ人間「ではない」事物とコミュニケーションすること、つまり「虫」を誘惑するための「花」のようなアプローチなのだ。 さらに連載記事<インターネットが実現した「多様性」を人々がこぞって捨て去ろうとしている「悲しき現実」>では、現代の情報社会が直面している問題点をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。
宇野 常寛(評論家)