萩原健一(ショーケン)デビュー曲“歌唱拒否”の真相を暴露「変なアップリケのついたひらひらのユニフォーム着せられちゃってさ。あれには参った」
ギャラは5人で1日3500円…それでも音楽をやり続けた
「メンバーが着ていたユニフォームも、俺と松崎が言い出しっぺになって、やめさせちゃった。『みんな、バラバラの洋服にしようよ』って」 前からいたメンバーたちが、ビートルズやアニマルズ、デイブ・クラーク・ファイブなどを例に持ち出して反発しても、こう言い返して主張を押し通した。 「ローリング・ストーンズはユ二フォームなんか着てないじゃないかよ」 テンプターズのレパートリーは、ローリング・ストーンズ、アニマルズ、ヤードバーズといったイギリスのR&Bバンドだった。そしてショーケンはといえば、ミック・ジャガーにも見劣りしないステージ・アクションをやってみせた。 「ギャラは一日3500円。ただし、五人全員で。ひとり頭、1000円にもなりません。でも、とりあえず、食っていければいい、と思ってました。お金を儲けるよりもブルース・バンドとして、自分のやりたい音楽を続けていくことが大切だったから」 それから1年後。1967年に沢田研二のいるザ・タイガースがデビューして本格的なグループ・サウンズのブームが到来すると、いろいろな所からから様々な人たちがテンプターズをスカウトしにやって来た。 そして彼らは、ザ・スパイダースの田邊昭知が設立したスパイダクションと契約し、半年間の合宿生活を経てプロ・デビューすることになった。スパイダースに在籍していたムッシュかまやつ(かまやつひろし)は、デビュー前の彼らをこう回想している。 「しかし、ガラが悪くてまいった。スパイダースが出演しているジャズ喫茶に遊びに行くと、客席から『サティスファクションやれ!』などと怒鳴ったりするのだ。彼ら、ストーンズが好きだったから。懐しいね」
「もう、こっ恥ずかしくてさぁ、イヤだったな」
デビューが決まり、いざレコードを出すという時にも、事務所との食い違いが明らかになった。 「さぁ、いざデビューって時から、ぼくは文句ばっかり言っていた。だって、変なアップリケのついたひらひらのユニフォーム着せられちゃってさ。あれには参った。もう、こっ恥ずかしくてさぁ、イヤだったな。すごくイヤだった。ホンットにイヤだった。だから、デビュー曲の『忘れ得ぬ君』も、おれは歌わなかった。どうしても、歌いたくなかったから」 こうした事情があって、作詞・作曲した松崎が自分で唄うことになった。幸いにも1967年10月にリリースされたデビューシングルA面の『忘れ得ぬ君』はまずまずのヒットになり、ショーケンが唄ったB面の『今日を生きよう』も、同じくらいにヒットした。 周囲からの期待が高まる中、松崎によるセカンド・シングル『神様お願い』を1968年3月にリリース。ショーケンが歌って、スピード感と切迫感に満ち溢れていたことで大ヒットした。 ショーケンはここから一気に注目の的となり、人気の頂点にいたタイガースのライバル的なポジジョンを得て、沢田研二(ジュリー)に対抗するスターになっていく。 そして1970年代に入ると、二人のスター、沢田研二はソロ活動を選び、ショーケンは俳優の仕事へと比重を移していった。 俳優の仕事を始めた頃の萩原健一には、どこか寂しそうでナイーブなジェームス・ディーンのような柔らかさと、型破りで反抗的なマーロン・ブランドのような硬さが同居していた。