信子さま 義母・百合子さまの斂葬の儀にも参列せず…終わりの見えない三笠宮家の“母娘の断絶”
11月26日、東京・文京区の豊島岡墓地は深い悲しみに包まれていた。101歳で薨去された三笠宮妃百合子さまの本葬である「斂葬の儀」が執り行われたのだ。 【写真あり】目頭を抑えられる彬子さま 「11月15日の朝、百合子さまが、老衰で薨去されました。26日に行われた斂葬の儀は、いわゆる本葬となり、百合子さまとの最後のお別れの場となります。 喪主を務められたのは、百合子さまの孫である彬子さま。黒いベールで顔を覆われていましたが、外からでも目を赤くされているのがわかるほどで、時折、目頭をハンカチで押さえる場面もありました。彬子さまの妹の瑶子さまも、園遊会で話題になった華やかなピンクのメッシュを暗く染めて、参列なさっていました。 ただ、ご身位や慣例からいえば本来喪主を務めるはずなのは彬子さまのお母様である、寬仁親王妃信子さまです。信子さまは、この斂葬の義にも参列なさりませんでした」(皇室担当記者) 百合子さまは、今年3月から聖路加国際病院へ入院。11月上旬にご容体が悪化されると、イギリスを訪問していた彬子さまは緊急帰国して連日お見舞いに行かれた。 「瑶子さまや高円宮妃久子さまら、ご家族がこぞってお見舞いするなかで、“長男の妻”である信子さまだけは病院に姿をお見せになりませんでした。 百合子さまが薨去された15日に信子さまは、両陛下や上皇ご夫妻、秋篠宮ご夫妻と愛子さまに続く形で、三笠宮邸へ弔問に訪れています。しかし、玄関で宮務官らに労いをお伝えになっただけで、百合子さまのご遺体には対面されませんでした。16日夕方に行われた納棺にあたる儀式『御舟入』にも、信子さまのお姿はありませんでした」(皇室担当記者) この信子さまの不在の裏には、三笠宮家内の”複雑な事情”が関わっているという。 ■一転した幸せだった結婚生活 「麻生太郎元総理の妹としても知られる信子さまは、’55年に麻生セメント会長の麻生太賀吉と第45代内閣総理大臣吉田茂の三女であるお母様との間にお生まれになりました。イギリスのロスリンハウス・カレッジを卒業後、松濤幼稚園の英語講師を務められ、 ‘80年に“ヒゲの殿下”と親しまれた寛仁さまとご結婚。その翌年に彬子さまを、’83年には瑶子さまをご出産されました。 料理上手で知られる信子さまですが、宮家に嫁がれた当初は、お料理にも不慣れだったそう。ひじきを戻すと膨らむということを知らず、目分量で戻したところ、ボウルから溢れるほどの量になってしまい2日かがかりで食べられたこともあったそうです。寛仁さまはそんな信子さまの料理を優しく見守られていて『プロの料理人の味は一定だが、ノンチの味は微妙に毎回違うからいいね』と声をかけられたそうです」(前出・皇室担当記者) ’91年に寛仁さまの食道がんが発覚。闘病される寛仁さまのために、信子さまは1日6回の食を用意。殿下の好みや、栄養価などを考え1週間で42食の献立を考える信子さまに、殿下も「ノンチ、あまり無理するなよ」とお声をかけられたという。信子さまは当時、本誌のインタビューで《宮さまが“うまい”とおっしゃってくださるひと言がいちばん嬉しゅうございました》と語られていた。 「しかし、何度もがんを発症されるなか、寛仁さまと信子さまとの間には徐々に溝が生まれていくことに。お二人の不仲の原因については諸説ありますが、寛仁さまの酒量の増加が主な原因だと言われています。そして‘04年には、信子さまと寛仁さまは別居生活を始めることになったのです」(前出・皇室担当記者)