松平健「芸能生活50年、17歳で上京したとき、母だけが応援してくれた。『暴れん坊将軍』や『マツケンサンバ』でお茶の間に愛されて」
◆男たるもの、冒険しないといけない 私の出身は愛知県豊橋市です。子どもの頃はよく、暗くなるまで缶蹴りや忍者ごっこをして遊んでいました。ひょうきんで、人を笑わせるのが好きでしたね。学校では生徒会長のように目立つ存在ではなく、その横で応援しているタイプでした。 役者を目指すきっかけになったのは、10代の頃に見た石原裕次郎さん主演の映画『太平洋ひとりぼっち』です。確か石原プロモーションの第1回製作映画だったと記憶しています。裕次郎さん演じる主人公が、ヨットに乗って一人で太平洋を横断するというストーリーに衝撃を受け、「男たるもの、冒険しないといけない」と考えるようになりました。 もともと私は、小さい頃から映画館に通っていた映画好き。最初に見たのは小林旭さんの作品で、それ以降、浜田光夫さんと吉永小百合さんの『愛と死をみつめて』、舟木一夫さんが主題歌も担当した『絶唱』など、たくさんの日活映画を見てきました。 と言うのも、大工だった父が日活の映画館の社長さんの家を手入れしていた関係で、よく招待券をもらってきてくれたのです。 17歳で上京して役者になると言った時、兄弟は「お前は何を言っているんだ」と大反対。その頃すでに父は亡くなっていて、母が苦労して家計を支えていました。 そんな中で母だけが、「好きなことをやりなさい」と応援してくれたのです。私の手にお金を握らせ、東京へと送り出してくれた日のことは、生涯忘れることができません。 母は、『暴れん坊将軍』が始まった2年後に亡くなりました。親孝行らしいことは何もできませんでしたが、ドラマへの出演をものすごく喜んでくれて。せめてもの恩返しになったのかなと思っています。
◆今も生きる勝新太郎師匠の教え 上京して真っ先に向かったのは、石原裕次郎さんのご自宅でした。今では信じられないことですが、昔は著名人の住所が週刊誌で公開されていたのです。それを見て伺ったものの、裕次郎さんには会えず。出て来た方に「石原プロに入りたいのですが」と直訴したところ、「会社に電話してください」。 それならばと石原プロに連絡をするも、「今、役者の募集はしていません」と門前払いされてしまって。考えたあげく、新聞広告の募集で見つけた俳優養成所に入所することにしました。 勝新太郎師匠に出会ったのは4年後、私が21歳の時です。その後、勝プロダクションに入り、師匠の付き人をすることになりました。そして、師匠主演のドラマ『座頭市物語』でデビュー。翌年には、ドラマ『人間の條件』で初の主役を演じました。 師匠からはたくさんのことを学びました。ある時、言われたことがあるんです。「お前は矢だ。俺が放ってやるからどこまでも飛んでいけ。頑張るのをやめたら矢は地面に落ちるが、努力を忘れなければいつまでも飛び続けられる」と。それは今でも私の座右の銘になっています。 とにかく言動のすべてが豪快で、こうした公の場で披露できるエピソードがあまりないのが残念なのですが(笑)、本当に人を驚かせ、楽しませることが大好きな人でした。師匠のその精神は、今の私の舞台にも生きていると思います。