「才能の限界を感じた...」少年時代に、名将・野村克也が夢見た「意外すぎる職業」
「このがらんどうの人生を、俺はいつまで生きるんだろう。俺はおまえのおかげで、悪くない人生だったよ...おまえは幸せだったか....?」 【漫画】「しすぎたらバカになるぞ」…性的虐待を受けた女性の「すべてが壊れた日」 生きている間に伝えたかった「ありがとう」をこの本で。名将・故野村克也さんが綴った、亡き妻・沙知代さんへの「愛惜の手記」。2人のかけがいのない思い出から「夫婦円満」の秘訣を紐解いていこう。 *本記事は『ありがとうを言えなくて』(野村克也著)を抜粋、編集したものです。 『ありがとうを言えなくて』連載第9回 『「母はたくましかった」名将・野村克也の母に立ちはだかった残酷すぎる壁…母が「強くならざるを得なかった」ワケ』より続く
最初に目指したのは「歌手」だった
中学生になったとき、私は、真剣に自分の将来を考え始めた。大金を稼いで、少しでも母に楽をさせてやりたかった。 とはいえ、当時の田舎の中学生の発想などたかが知れている。とにかく有名になりさえすれば金が稼げるのだと思っていた。 私は最初、歌手になろうと思った。私が中学二年生のとき、二歳下の美空ひばりが12歳で歌手デビューした。 これだ、と思った。それで音楽部に入った。だが、私の声を聞いたことがある者なら容易に想像がつくだろうが、音域が極端に狭かった。 同級生に「いっぺん声をつぶせば、音域が広くなる」と言われ、海に向かって声が出なくなるまで叫び続けた。 声がかれただけだった。だまされた自分が情けなく、また、早くも才能の限界を感じ、歌手の夢はあきらめた。
佐田啓二に憧れ、「映画俳優」を目指した
次に目指したのは映画俳優である。1943年に黒澤明が『姿三四郎』で監督デビューするなど、国内で若き才能が芽吹き始めている時期だった。 私は松竹の二枚目スター、佐田啓二に憧れ、演劇部に鞍替えした。だが鏡に映る自分の顔を眺めれば眺めるほど、絶望的な気分になった。 男前でなくても性格俳優と呼ばれる志村喬のような名役者もいた。そういう路線なら、むしろイイ線までいったのではないかと思うのだが、当時は、役者は男ぶりがよくなければならないという固定観念があった。 私が歌手志望であり役者志望であったと話すと、今ではみんな笑って受け流すが、私は大真面目だった。 もちろん、プロ野球選手という選択肢も、頭の中にはあった。赤バットの川上哲治さんや、青バットの大下弘さんが輝いていた時代だ。当時、私は大の巨人ファンだった。 だが、野球は道具をそろえるのに金がかかる。そのときの生活を考えると、とてもではないが、母親にグラブを買ってくれなどとは言えなかった。その点、歌手と役者は元手がかからない。 しかし、残された選択肢は野球しかなかった。 『野球は「単なる遊び」…母の大反対のウラで野村克也が野球を続けた感動の理由』へ続く
野村 克也(野球解説者)