源頼朝の挙兵が成功した納得の理由、密事を一人だけに話したことでわかる性格
■ 兵を挙げるも頼朝は出陣せず さて、8月17日。この日の午後になって、やっと、佐々木定綱らが頼朝のもとに到着しました。雨による増水のため、到着が遅れたとのこと。頼朝は涙を流しつつ「お前たちの遅参により、今朝の戦ができなかった。残念じゃ」と佐々木らに言ったとされます。 その日の夜、頼朝の命令により、安達盛長の手の者が、兼隆の雑色(雑務に従事する者)を捕えます。この雑色は、北条邸の下女と結ばれており、毎夜のように通ってきていたのです。北条邸には軍勢が集結していたので、異変に気付いた雑色が、兼隆邸に走り、異変を告げることを防ぐ意味がありました。 いよいよ、兵を挙げる時が訪れました。頼朝は出陣せず、邸に留まります。邸を出た将兵は、兼隆の後見・堤信遠の邸を最初に襲撃。これを討ち取ります(信遠討伐は、北条時政の発案で、急遽、決まったようです)。兼隆の邸の前で「矢石」を放つ北条らの軍勢。しかし、兼隆の家臣たちは、同日に行われた三嶋社の祭礼に出かけており、邸にはいませんでした。邸に残っていた者は、死を恐れず、頼朝方の軍勢と戦ったといいます。 が、多勢に無勢で、ついに兼隆は討ち取られてしまうのです。挙兵の第一段階は、成功したと言えましょう。成功の鍵は、事前の準備にあったと言えます。スパイを敵方に忍び込ませて、邸周辺の地理を探る。情報が漏れることを恐れて、敵方の雑色を捕らえる。人々が眠っている夜に挙兵したこと(夜襲をかけたこと)。こういった諸々の対策が功を奏したのではないでしょうか。 後になって考えれば、佐々木氏の遅参により、挙兵の日程が若干ズレたことも良かったのかもしれません。早く挙兵していたら、兼隆の家臣たちはまだ多く邸にいて、最終的には頼朝方が勝っていたとしても、討伐に手こずった可能性があります。これも偶然と言えば偶然なのですが、ここにも頼朝の運の良さが表れています。 頼朝は将兵らが出陣した後、邸にいて、兼隆の邸の方角から火の手が上がらないか、じっと待っていました。煙がなかなか上がらないので、心配して、下男を木に昇らせたのですが、それでもよく見えません。(我が方は、負けているのか)と頼朝は感じたのでしょう。周りにいた武将を援軍として派遣するのです。彼らは命令通りに、兼隆の邸に乱入し、その首を取ったのです。
濱田 浩一郎