「どちらかがドンッと落ちてしまう戦い」アントニオ猪木さんが語っていたタイガー・ジェット・シン戦
政府は2024年春の叙勲受章者を発表し、外国人叙勲としてタイガー・ジェット・シンさん(80)に旭日双光章が贈られることになった。外国人プロレスラーとしてはザ・デストロイヤーさん(17年)、ミル・マスカラスさん(21年)に次ぐ栄誉。元プロレスラーで元参院議員のアントニオ猪木さん(22年10月1日没、享年79)と血の抗争を繰り広げた“インドの狂虎”。晩年の猪木さんに密着インタビューした福留崇広記者が聞いていたシンさんへの思いをコラムでつづった。(以下敬称略) 【写真】猪木をサーベルで襲う1976年のシン ストロング小林、ムハマド・アリ、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、ブルーザー・ブロディ…。幾多のライバルと出会った猪木に「最高の相手は誰か?」と聞いた時、即答したレスラーが「タイガー・ジェット・シン」だった。 インド系カナダ人のシンは、1965年にプロレスデビューした。新日本プロレスへの参戦は、当時、東南アジア地区の外国人招へい担当を任せていた商社マンからの売り込みだったという。 「その人がシンの写真を持ってきたんだけど、その写真がナイフをくわえていてね。その姿は俺の感覚にはピンとこなくて、だったら『こいつにサーベルでも持たせたら面白い』と直感して、サーベルを持たせることにした。俺はレスラーであるけど、新日本ができてからプロモーターでもあったわけで、選手を目立たせるそういう感覚があった」 シンは73年5月4日の川崎市体育館への乱入から新日本へ初参戦する。以来、頭にターバンを巻きサーベルを手にし極悪非道のファイトに徹し、凶器攻撃を猪木に浴びせた。中でも同年11月5日に新宿伊勢丹前の路上で猪木を襲撃した「事件」は今も語り継がれる伝説となっている。 リング上では74年6月26日の大阪府立体育会館での一騎打ちで猪木が「腕折り」で勝利した壮絶な一戦など、蔵前国技館、広島県立体育館などさまざまな会場で数々の名勝負を刻んだ。 「シンとの勝負は例えればてんびんだった。俺が重りを乗せれば、向こうはさらに乗せてくる。そうなると俺は『そうきたかい。だったら、これでどうだ』ってさらに重いものをはかりの上に乗せて…ってね。一体、どこまでいくのか俺自身も分からない世界。それは恐らくシンも同じだったと思う。猪木なのかシンなのか。限界までいった時、どちらかがドンッと落ちてしまうそんな戦いだった」 最高のスリル 猪木自身が最高のスリルを味わった相手。それがシンだった。行き先が分からなくなる恐怖に観客は熱狂した。その興奮が猪木にとって快感だったのだろう。 (福留 崇広) 「日本人は家族」 〇…現在はカナダで慈善団体を運営しているシンさんは、旭日双光章の知らせに「日本の全てのプロレスファンに与えられた栄誉だ」と喜び「猪木が一番強かった」とライバルを称賛した。「日本は良い思い出ばかり。一生忘れない。誠実な人たちだ」。現金や貴金属が入ったかばんをホテルに置き忘れたことがあったが、盗まれずに戻ってきたという。「日本は第二の故郷。日本人は家族のような存在だからね」。11年の東日本大震災に心を痛め、自宅を失った福島の児童らに義援金を送るなど、悪役とは違う素顔があった。 ◆福留 崇広(ふくとめ・たかひろ)1968年、愛知・春日井市生まれ。国学院大卒。92年、報知新聞社入社。「さよならムーンサルトプレス 武藤敬司35年の全記録」(イースト・プレス、徳間文庫)、「昭和プロレス禁断の闘い『アントニオ猪木対ストロング小林』が火をつけた日本人対決」(河出書房新社)、「テレビはプロレスから始まった 全日本プロレス中継を作ったテレビマンたち」(イーストプレス)などの著書がある。
報知新聞社