口内炎と思いきや「舌がん」ステージ4。人気ヒップホップMCの“その後”「人生が暗転したような気分だった」
ビースティ・ボーイズのライブに飛び入り参加
M.C. BOOさんは高校時代からヒップホップのグループを組んでいたという。当時はインターネットもなければYouTubeもなかった。そのため、ラップやDJの仕方がわからないところからスタートし、仲の良い同級生にDJをやってもらいながら、“遊び半分”で音楽を楽しんでいたとか。 「神戸出身なので、関西を中心にクラブでライブを行っていました。すごく楽しかったけど、80年代後半から90年代初頭の日本は、“ラップ”と言っても『サランラップ?』と聞き返される時代。これでは到底、ラップだけでは飯は食えないなと思っていました」(M.C. BOOさん、以下同) 転機になったのは、1992年にビースティ・ボーイズが大阪と東京でライブ公演を行った際に、M.C. BOOさんがラップのフリースタイル(即興)に呼ばれたことだった。 飛び入りでラップに参加したつもりが、ビースティ・ボーイズのメンバーに深く気に入られたことで、ライブの半年後にアメリカの大手レーベル「キャピトル・レコード」からM.C. BOOさんのフリースタイルが収録されたレコードが発売されたのである。 「メジャー・フォース(日本初のクラブミュージック・レーベル)を設立した高木 完さんのもとに、ビースティ・ボーイズからレコードやテープのサンプル音源が届いたんです。そしたら、『これ、BOOのラップ入ってない?』という話になって。どうやらサンプルだなと思っていたら、いつの間にか世界デビューしていたんですよ」 それ以来、日本国内のライブはもとより、Run-D.M.C.やDe La Soul、Digital Undergroundといった海外アーティストのフロントアクトの仕事が多く舞い込むようになった。 「その頃はすでに『スチャダラパー』が売れていた時期でしたが、来日するミュージシャンの関西のフロントアクトは、僕たちが結成した『脱線3』がほとんど務めていたんですよ。そんな折に、高木さんから『メジャーフォースで1stアルバム出そう』と誘われて、1994年に発表しました。 プロデュースは高木 完さんとスチャダラパーのshincoさん。当時のキャッチフレーズは“西のスチャダラパー”という風に売り出してましたね。おかげさまでCDもたくさん売れて、その後はEPICソニーと契約してメジャーデビューすることになったんです」