強烈な感動を生み出すには?「共感狙い」ではなくヒューマニティ:『エアー3.0』著者寄稿
時代の感性とは「信じなければならないもの」
当時の浅田彰が「時代の感性」と呼んで信じたもの(それがなにかはここでは詳述しない)と、いま僕が「時代の感性」と呼びたいものは異なる。では、僕が感じる「時代の感性」とはなにか。これもまた、ずいぶんぼんやりしているが、それは一種の強迫観念である。 なにかを書いて世間に届けようとする人間はこの「時代の感性」とやらにフィットさせることを期待される。そして、「時代の感性」は「市場」と密接な関係を持つ。そして、その「時代の感性≒市場の感性」にうまく寄り添うようにしてもの作るべし、という姿勢を作り手は強いられる。つまり、時代の感性とは、「信じなければならないもの」としてある。 ■信じたいのは「ヒューマニティ」 サラリーマンとして映画の仕事をしていたときに僕はこれを「共感至上主義」と呼び、この傾向に疑義を呈していたが、まったく相手にされなかった。もちろん、共感は、人間にとって非常に大事な感性である。しかし、「あるある」「そうなんだよね」とうなずいてもらうことばかりを目指していては、受け手の中に強烈な感動を生み出すことはできない。 「時代の感性」にフィットさせる「共感狙い」のコンテンツが日本のサブカルチャーに締める割合は実に大きい。けれど、僕が信じたいのは「時代」でも「市場」でもなく、人間である。ヒューマニティである。 ではヒューマニティとはなにか。ぼくはそれを、科学的合理性では説明できないなにかに見出したいと思う。 現代社会をドライブしているのは、科学技術、資本主義とそれに伴って生まれた個人主義である。たとえば、経済学は研究対象を資本主義とする学問であるが、経済学は人間を合理的な主体とみなす。これは、人間を動物とみなしているに等しい。しかし、人間が経済活動において不合理な選択をすることは、経済学の新潮流である行動経済学によって明らかにされた。 また、科学は事実をきれいな数式で示してくれるが、意味は与えてくれない。そして、個人主義が個々人をばらばらにし、意味づけされない人生を生き、孤独を深めていく。大きく言えば、これがさまざまなバリエイションで表現される「時代の感性」≒「生きづらさ」の大元である。 では、科学的な合理性と個人主義の向こうにあるものはなにか。たとえば宗教がそうだろう。けれど、僕はただ単に「宗教を復活させろ」とは言いたくない。ただ、“宗教的なるもの”にもっとまなざしを向けるべきだとは思う。 その“宗教的なるもの”を探りつつ、小説家である僕は『エアー3.0』(小学館、9月25日発売)を書いた。この思いは前作の『エアー2.0』からいささかも変わっていない。
榎本憲男