やす子も、戦隊俳優も “児童養護施設”出身者が語る子どもたちの現状と今後の課題
ブローハンさんの母は養父から息子を引き離すため、知り合いの家に預けて、仕事に行くことも多かった。ブローハンさんはそこでも暴力やネグレクト、性的虐待に遭ってしまう。 「それでも母には心配をかけたくないので、言いませんでした。ただ養父からお尻をライターであぶられた際、やけどが痛くて変な座り方をしていたのを先生が気づいて、児童相談所に連絡がいきました。そこから虐待が判明し、児童養護施設での暮らしが始まったのです」
住むところがなくなりホームレスも経験
施設に入って驚いたのは1日3食ごはんが食べられることだった。 「母は13人きょうだいでフィリピンに仕送りをしており、お金がなくて、僕は1日1食食べられたらいいほうでした。施設では誕生日のときはリクエストを聞いてくれ、フィリピン料理を作ってもらったこともあります。仲間ができた感覚があり、安心も得ました。でも、最初は寝ているときに足音が聞こえると、養父からの暴力を思い出してビクビクしていました。安心して眠れるようになったのは3~4年たったころです」 一方、最愛の母は14歳のときに病気で亡くなり、身寄りがなくなってしまった。 「母は親としての能力は低かったのでしょうが、愛情表現は欠かさない人でした。毎日、『I LOVE YOU、I MISS YOU』と僕に伝えてくれていたので、母が喜ぶいい息子でいたいという気持ちが大きかったのです。これまで道から外れずに生きてこられたのも、母からもらった愛情が大きかったのだと思います」 児童養護施設で暮らす子どもたちは施設から学校へ通う。ブローハンさんも施設から学校へ通い、高校卒業後は寮のある病院に事務職として就職したが、看護学校に通うように説得されたものの、看護助手として過酷な働き方を強いられて、1年で辞めてしまった。 「住むところがなくなりホームレスも経験しました。その後、日本に在住していた母の親族とつながることができ、家に住まわせてもらえることに。その間はスポーツ店や携帯電話ショップなどで働いて、生活費を渡していました。タレントのオーディションを受けたり、バックパッカーとして世界を旅したり、20代前半は自分がどうしたいのか模索が続きました」 転機が訪れたのは、施設で暮らした若者が集まるプロジェクトに参加した26歳のときだ。明るく、コミュニケーション力の高いブローハンさんは、プロジェクトのスタッフとして一緒に活動しないかと誘われる。 「それが今のコンパスナビで、事務局長を経て、今年から代表理事になりました。現在はこども家庭庁の委員として政策提言をしたり、講演会でお話しすることも多いです。施設から逃げ出した子どもの相談に個人的に乗ることもあります」 社会的養護下にある児童が生活する場所は、児童養護施設以外に、15歳以上の義務教育を終了した児童が生活する自立援助ホーム、一般家庭での養育を委託する里親、養育者の住居で家庭養護を行うファミリーホームなどの形態がある。 なかでも自立援助ホームは個人でも民間でも設立できるため、施設長が独自のルールで運営してトラブルになることもあるという。 「施設から逃げ出すと、行くところがなく、虐待が行われていた家庭に戻らざるを得なくなる子どももいます。そういった子どもたちが安全に暮らせるようサポートしていますが、大切なのは本人が自分で決めることです。解決型思考より伴走支援で、本人がどうなりたいかを一緒に考えていくことを大切にしています」 ブローハンさんたちの活動に勇気づけられる若者は多いが、将来を絶望し、自ら命を絶ってしまうケースもある。 「18歳まで最悪の環境で暮らして、やっと家を出られて、ここからが本当のスタートだと伝えても、自信が持てなかったり、トラウマを抱えていたりして、なかなか前に進めない人もいます。昨年は支援していた人が2人亡くなり、自分の活動の意義が揺れて、この仕事を辞めることも考えました。 ここから一歩出たら全然変わる世の中がある、光があるということを伝えたいのですが、苦しい渦中にいる子どもたちにはなかなか言葉が届きません。 でも僕自身が光を信じていないと伝わらないと思うので、光が眩しくても伝えていくことに決めました。今、過酷な環境下にいても、決して明日をあきらめないでほしい、助けてくれる大人たちもたくさんいることをこれからも示していきます」