嘉納治五郎、五輪招致の新資料 40年東京へ準備周到、裏側も
柔道の創始者で、アジア初の国際オリンピック委員会(IOC)委員となった嘉納治五郎が1940年東京五輪の招致活動の状況を記した新資料が2日までに東京・講道館の収蔵庫で見つかった。国際人脈を生かした周到な準備や招致の裏側、スポーツの祭典の開催理念などが詳細に記され、7月開幕のパリ五輪を控える年に先人の功績へ改めて光が当たりそうだ。 資料は34年5月29日付で、当時の東京市長牛塚虎太郎宛て書簡の下書き。縦22センチ、横13.5センチの便箋11枚の計20ページにわたり、アテネでのIOC会議の報告など、縦書きで文字が書き連ねられている。訂正線が残っており下書きだと分かる。 東京が五輪の開催地に決まったのは36年7月のIOC総会。ローマが本命視されていたが、イタリアのムソリーニ首相にローマ辞退の同意を得たことが招致成功につながった。31年の満州事変をきっかけに日本は国際連盟を脱退して孤立化し、欧米との地理的距離もあり実現は容易ではなかったが、資料にはローマ辞退を引き出すまでの経緯がつづられている。