南半球の悲劇 英国と豪州が生んだ大型FRセダン「レイランドP76」の奇妙な物語
レシピ
P76はこれらすべての要素を備え、流行のウェッジシェイプ・ボディを採用し、1973年に発売された。レイランド・オーストラリアの社内デザイナーであるロマン・ロッドバーグ氏が、かの有名なジョバンニ・ミケロッティ氏の助言を受けながらデザインした。 エンジンは、オースチン・モーリスの横置き2.2Lの拡大版である2.6L直列6気筒エンジン、または元ビュイック3500エンジンを改良したローバーの4.4L V8エンジンから選択できた。
デザイン
巨大なオーバーハングと44ガロンのドラム缶がすっぽり入るほどのトランクを備え、羊牧場で精力的に働くにはうってつけのクルマだった。P76のニックネームとして、Hairy Lime(毛むくじゃらのライム)、Am Eye Blue(わたしの青い瞳)、Peel Me A Grape(グレープをむいて)、Home On Th’ Orange(オレンジ色の我が家)、Oh Fudge(なんてこと)など、ダジャレのようなものが多く与えられた。 オーストリアのメディアには、P76はかなりよく走り、頑丈で、ライバル車にも負けないと評価された。オーストラリアの雑誌『Wheels』は、1973年のカー・オブ・ザ・イヤーに選んだほどだ。
破滅
そして、すべてが水の泡となった。ストライキ、部品不足、未完成の開発プログラム、産業破壊行為の噂などがP76を蝕んだ。BLの一部のライバル企業は、レイランド・オーストラリアが優れたクルマを生産していることを恐れ、部品納入を遅らせるようサプライヤーに圧力をかけたと見られている。 こうして、P76が発表されてからわずか1年4か月後の1974年10月、シドニー工場とともに歴史に幕を閉じた。現地での問題だけでなく、英国で広がっていた親会社BLの問題の犠牲者でもある。P76は約1万8000台が生産され、そのほぼすべてがオーストラリア国内で販売されたが、欧州での販売も検討されていた。