<解説>「推し活」 推しがいないとダメですか? “推しの押しつけ”感じるワケ
SNSの普及によって加速度的に広まり、もはや一般名詞となった“推し”や“推し活”。さまざまな企画もさかんに行われ一大市場となっているが、人によってはちょっとした違和感を感じることも増えてきたようだ。このちょっとしたモヤモヤをアニメコラムニストの小新井涼さんが解説する。 【写真】推し活に「200万円くらい使った」“実写版まる子”
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昨今、“推し”や“推し活”という言葉が広く一般化したことで、世間から注目を集め、何かとメディアで取り上げられる機会も増えてきました。
それに伴い、推し活に便利なグッズやサービスが増えてとても助かる一方で、実際に推し活を楽しむ当事者の間では、徐々に増える推しや推し活を扇動・前提化するような一部の風潮に、少し辟易する空気も漂いはじめています。
こうした空気の要因は、本来自発的に(時に不可抗力的に)できるはずの推しや、自由気ままに楽しまれていた推し活が、第三者から“押しつけ”られることへの違和感にあるのではないでしょうか。
例えば最近、「推しを見つけよう」「推しが見つかる」と謳った、作品やアーティスト等の特集を見かけることも増えてきました。しかしそうした、まるで新しいエンタメに触れるきっかけが推しを“作る・探す”ためであるかのような謳い文句には少し疑問を感じてしまうこともあります。
それは、あくまで個人の意見ですが、推しは人に言われて作ったり探したりするものというよりは、作品やアーティスト等に触れた結果、“できる(ことがある)”ものだと思っていたからです。
例えが難しいのですが、それは自身が家族として大切にしているペットについてのSNSアカウントがたまたまバズるのと、バズるためにペットを飼うことくらい、結果は同じでも意味は大きく違います。そこで生じているのは、まるで推しが推し活をするためのツールであるかのように、「推し活をするために推しを作ろう・見つけよう」と、第三者から扇動されることへの違和感なのかもしれません。