<解説>「推し活」 推しがいないとダメですか? “推しの押しつけ”感じるワケ
他にも、何かを好きになったり応援したりする際に、まるで“推しがいることが前提”とされているかのような風潮に少し戸惑いを感じてしまうこともあります。今や推す側のファンだけでなく、ファン以外の人々や企業側までが“推し”という言葉を使うようになり、アイドルやアニメをはじめ、スポーツ等あらゆるジャンルで“推し”という言葉に出くわすようになりました。
しかし何かを好きであったり応援したりするファンの中には“推し”がいない人もいますし、もちろんそれでも対象を十分楽しむことはできます。例えばアニメであれば、原作を読む、グッズを買う、コスプレをするといった様々な楽しみ方がありますが、「推しがいる人」「推しがある人」にとっては推し活にもなるそれらの行為は、当たり前ですが推しがいなくても行えるからです。それもあって、昨今の“何かを好きなら”“応援しているなら”“ファンなら”まるで推しがいることが前提とされているような、一部マーケティングや報道の風潮には、どうしても違和感を持ってしまうのかもしれません。
冒頭で述べた通り、推しが一般化したことで嬉しかったり助かったりすることもたくさんあります。実際に、推しのいるファンが何を求めているかを知った企業によって、需要に合致した展開が行われたり、“こんなグッズが欲しかった…!”と思うような便利なグッズが生まれてきたりもしました。
しかし一方で、最近は推しを巡る盛り上がりを受け、一部企業やメディアが、ファンの熱量をなんでもかんでも推しや推し活にラベリングしているかのような、“推しの押しつけ”を感じてしまう瞬間も増えています。それによって、従来は自分たちで使っていた推しや推し活という言葉が、いつのまにか第三者から押しつけられるようにもなった事態に、何だか知らない言葉と対峙しているかのような違和感も生じているのかもしれません。
この盛り上がりによる違和感も一過性のもので、今後は徐々に落ち着いていくのか、それとも違和感はより加速して、“推し”という言葉がいずれ推す側の当事者たちの知らない、第三者によりイメージ付けられた全く別の言葉になっていってしまうのか。推しを持つ当事者たちが抱く違和感には、従来自分たちが使っていた言葉が第三者によって別の意味で塗り替えられてきているかのような、それを押しつけられているかのような、そうした漠然としたモヤモヤもあるのではないかと、個人的には思います。